
いて座
どこでもない場所のまん中から

虚心坦懐でいること
今週のいて座は、『能なしはつみもまたなし冬籠(ふゆごもり)』(小林一茶)という句のごとし。あるいは、精神的な生まれ変わりに備えていこうとするような星回り。
続けざまに長男長女が亡くなるなど不幸が重なるなどして、作者の気がずいぶん滅入っていた頃の作。ここで言う「能なし」とは作者自身のことを指しており、つまり自分みたいにろくに女遊びさえできない人間が、どうして「つみ」など犯せるものかと言っている。どこか弁明的ですね。
というのも同年、作者は皮膚の病気にもかかっており、それについて売春宿で病気をもらってきただの、子どもの死も作者のせいなのではなど、作者はあらぬ噂を立てられていたのです。それがよほど精神的にこたえていたのでしょう。
そのことを背景に掲句を読むと、「能なし」と言い方はもはや思い悩んだり、強がったり、おどけたりするような元気さえなく、従ってこれ以上罰するような罪などもはやこれっぽっちも残っていないはずだという、かなり深刻な状態を暗示しているようにさえ思います。
しかし、中途半端に虚勢をはったり、自身の愚かさを受け入れられずにいるよりも、そうしておのれの弱さや無力さと向き合って虚心坦懐でいる方が、よほど霊的エネルギーを蓄えてやがて訪れる春=新たなる生にそなえる「冬籠」期の在り方としてふさわしいのではないでしょうか。
1月29日にいて座から数えて「サバイバル」を意味する3番目のみずがめ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、みずからの現状に危機感を抱いていればいるほど、いったん徹底的におのれを低めていくことがテーマとなっていきそうです。
つかまり立ちする幼児のように
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見回してみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人びとの姿だけだった。僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。」(村上春樹『ノルウェイの森』)
例えば、この「僕」はいかにも事態をコントロールするだけの力や経験も落ち着きもなく、きれいな波紋へと収束しきれずにただカオスとしてざわつき続ける羽虫のようですが、もし仮にこの「僕」がつかまり立ちする幼児のような虚心坦懐に立ち返ることができれば、その後の展開もまた違ったものになってくるのではないでしょうか。
良くも悪くも何がしかを創り出してしまうのが人間の本質だとするなら、幼児のつかまるモノであれ、特定の他者やシステムであれ、自分に新たな行き先をもたらしてくれるような他の座標系と浸透したり、反発しあいながら適切な間合いを探っていく他ありません。
今週のいて座もまた、孤立純化したシステムとして硬直してしまうのではなく、「つかまり立ち」を通して、グッと新たな座標系を引き寄せていきたいところです。
いて座の今週のキーワード
頭カラッポのほうが夢詰め込める





