みずがめ座
補償作用を促していく
昔々あるところに…
今週のみずがめ座は、丸谷才一の『樹影譚』のごとし。あるいは、みずからの稚拙さや大人げなさをある種の他人事として語っていこうとするような星回り。
村上春樹は『若い読者のための短編小説案内』のなかで、作家の丸谷才一について「反私小説的である」と言及した上で、その作品の特徴について次のように述べています
私小説というのは、自己を外界あるいは社会に対峙させることで、小説=反物語を成立させているわけですから。それとはまったく逆のことを、丸谷氏は小説家としてやっているわけです。他者を外界あるいは社会に対峙させることで、小説=物語を成立させている(この物語というのはstoryというよりは、感じとしてはむしろtaleに近いかもしれない)。そして他者と自己との、世界と物語との落差の中に(あるいは近似の中に)真実を読み取ろうとする。
つまり、ゼロから登場人物をつくって、それを“お話”のなかで生き生きと動かしてみせることで、それを語っている作者自身にある種の違和効果をもたらそうとしている訳です。
丸谷の『樹影譚』について、村上は①まず作者=丸谷が自己の世界を語り、②次に古屋という老小説家の作品や来歴をさも実際にそういう人物がいるかのように語った上で、③いよいよ古屋を主人公としたストーリーが始まっていくという3部構成になっていると整理したうえで、とりわけ②のパートこそが肝なのだと強調しています。
ただその際、奇妙なことにそのいちばん大事な②は「いちばん流れがつっかえている―言い換えればあまりうまく書かれていない」部分なのだとも指摘するのですが、作者はあえてそうしているのだと言うのです。
僕は、作者はこのような作業によって、おそらく自らを小説的に励ましているのだと思います。もしこの部分になにかしら稚拙なもの、あるいは大人げないものが見受けられるとしたら、それらが作者にとって必要だったからでしょう。
ではこの「稚拙」さや「大人げ」なさとは一体何なのか。それは古屋という人物に象徴される非常に理知的で整合性のとれた近代的思考につきまとう前近代的な影であり、非理性的で土着的な考えであり、丸谷はそれを作家としての不器用さとして作品に練り込みつつ、両者の葛藤とせめぎあいをフィクションとして展開させてみせたのです。
12月9日にみずがめ座から数えて「実存」を意味する2番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ある種の「語り」を通して自分自身のネガティブな側面にまつわる現実と直面していくための努力をしてみるといいでしょう。
一個の生きた深層心理
フロイトの発見した「無意識」という概念をさらに深めて、「集合的無意識」ということを言いだしたユングという人は現代人がイメージするような心理学者というより、「一個の生きた深層心理」と言った方が近く、したがって彼の構築したユング心理学とは何かなど、本来は急いで説明したり解説したりするべきものではないのでしょう。
ただそれでもあえてユング心理学の特徴について述べれば、それは「布置(コンフィギュレーション)」であり、心とはさまざまな自分を表すシンボルの置かれ方の妙に他ならず、自我(エゴ)と自己(セルフ)であれ、童子と老賢者であれ、ユング心理学の中身は大体が2つ以上の自分自身の“対話”から成り立っています。
そして重要なことは、ユングが個人の無意識のうちに「自我の中心」ではなく、むしろ自我がほしがっている「心の補償作用」を見ようとしたこと。つまり人のひねりだした思想や宗教だって、会社を作ったり結婚したりすることさえも、何かのついでの補償作用なのかもしれないと彼は見なしたのです。
今週のみずがめ座もまた、生きていく上で自分がどれくらい他者から力を借りなければならないのかを再認識しつつ、そのやり方について学んでいくべし。
みずがめ座の今週のキーワード
隣り合い、向かい合う何かに吸い寄せられていく