さそり座
さみしくなければ人ではない
透明な感情の芽
今週のさそり座は、「缶切りの一周さびし冬の夜」(対馬康子)という句のごとし。あるいは、何の証明も合意も形成されないまま、自分の中だけで芽生えた思いをこそ大切にすくいあげていこうとするような星回り。
こきこきと切り進み、けっして後戻りすることなく、1周すればもう2周目はない。その意味で、缶切りで缶詰をあけることはじつに潔い行為ですが、だからこそ一抹のさびしさが残るのでしょう。
掲句では、冬のどこか空気のはりつめた夜中に缶詰をあけるという状況ですから、作者の感じたさびしさもひとしおだったはず。
この1周することへのさびしさいうのは、どこか秋なら秋のたけなわになった途端に、立冬を迎えて秋が終わってしまうという、日本の季節感にも通じるものがあるかもしれません。あるいは、これまで着かず離れずの関係でいた異性と正式に恋人関係になることになった瞬間のさびしさであるとか。
つまり、兆し/萌しのレベルでの淡い付き合いが発生していた何かとの関係に、やっと確かな実感を伴って輪郭もはっきりしてきたころには、すでに関係の種類が変わってしまっているわけです。しかも、もとの「淡い付き合い」というのは大抵はほとんど他者との合意に基づいて言葉にされることなく、自身のなかで透明な芽が出てくるくらいで終わってしまう。
そうした、誰からも発見されず、誰にも共有することのかなわなかった思いというのは、長い人生のなかで無数の泡のように生まれては消えていくのでしょう。
12月9日にさそり座から数えて「主観」を意味する5番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたは、普通なら場末の幽霊のように現われては消えゆく他ない“思い”や“感じ”をこそ大切にしていきたいところです。
個体として存在継続していく上で
哲学者の九鬼周造は『情緒の系図』において、人間がもつ情緒を「主観的感情」、「客観的感情」、そして「緊張と弛緩の方向性をもつ感情」の3つに分けました。
はじめの2つはともにその中身が快不快を基本とするのに対して、3つめのそれは「欲」や「驚き」などに代表されるように、不快ゆえの快というような不思議な状態にあること、そしてそれは突然の出来事による緊張からもたらされるものであると分析した上で、九鬼は最終的に次の2つの情緒を人間存在の根本であると結論づけています。
人間が個体として存在する限り、存在継続の「欲」と、個体性の「寂しさ」とを、根源的情緒としてもつことはおのずから明らかである。「欲」と「寂しさ」の在るところに個体が在ると云ってもよい。そうして「寂しさ」は一方に自己否定に於いて「哀れ」と「憐み(アガペ)」へ放散すると共に、他方に自己肯定を於いて「恋しさ(エロス)」の裏付けに集中する。
すなわち、緊張と弛緩の感情である「欲」と主観的感情である「寂しさ」とは、その裏面に客観的な感情すなわち外部の対象へと向かう感情としての「哀れ」や「憐み」、そして「恋しさ」を持つのであり、より簡潔に述べれば、人ひとりが存在するとき、そこには必ず「寂しさ」があり、その一方で「恋」を通して他者を求められずにはいられないのです。
今週のさそり座もまた、みずからの抱えている「寂しさ」や「欲」を改めて探りあてていくことがテーマとなっていきそうです。
さそり座の今週のキーワード
「寂しさ」は自己肯定をおいて「恋しさ」の裏付けに集中する。