うお座
補色的な働き
植物の秘密
今週のうお座は、「息吹としての世界」のごとし。あるいは、植物の「浸る」ような在り方をまねていこうとするような星回り。
長らく人間社会から軽視され無視され続けてきた存在に「植物」がありますが、人間社会側の危機が地球全体を巻き込む規模で増大してしまっている現代において、改めてその存在について深い問いかけを行った哲学者のコッチャは、『植物の生の哲学』の中で何よりもまず植物の葉について取り上げ、次のように述べています。
植物の葉が支えているのは、その葉が属する個体の生命だけではない。その植物が表現形として最たるものであるような生息域の生命、さらにはその生物圏全体までもが葉に支えられて生きている。
葉から酸素や水蒸気が放出され、それは動物の肺に吸収されていく。植物が供給者で、動物が受容者となる訳ですが、両者は競合しあわず、むしろ共生し合います。
こうした葉の働きに象徴される植物の存在形式について、コッチャは「浸る」という独特の言葉遣いで説明しています。すなわち、「浸るとはまずもって主体と環境、物体と空間、生命と周辺環境との、相互浸透という<作用>」なのであり、「世界のうちに存在するとは、アイデンティティを共有するのでなく、常に同じ<息吹(プネウマ)>を共有することだ」として、「息吹としての世界」というイメージを掲げていくのです。
植物は何百万年の昔から、この世界で関わりあうさまざまな他者に、それぞれが互いに完全に融け合うことなく、交差し、混合する可能性をもたらしてくれてきた訳ですが、私たち人間がそうした植物の働きに学び、空気の再創造という彼らの最たる仕事を、また別の形でまねることだって不可能ではないはずです。
11月20日にうお座から数えて「潜在的な可能性」を意味する12番目のみずがめ座に冥王星が移っていく今週のあなたもまた、自身の活動や関係性にさりげなく植物特有の「浸る」作用を取り入れてみるといいでしょう。
赤の補色としての緑
かつてゲーテは色彩論のなかで「緑は生命の死せる像である」と述べましたが、これと似たことを染織家の志村ふくみが「緑は生と死のあわいに明滅する色である」という言い方で言っていました(『色彩という通路をとおって』)。
例えば、春先に萌えいずる蓬の葉汁を布や糸に染めても数分で消えてしまうし、藍染の染料とする液体をためておく甕に入れた糸を引き上げた瞬間の、目もさめるようなエメラルドグリーンも、空気に触れた瞬間に消えてしまいます。
緑を染めるには、闇にもっとも近い青と、光にもっとも近い黄色を掛け合わせる必要があるのだそうですが、そのことは緑という色が、いのちの秘密と関係していることの何よりの証左なのだと言えます。
宮沢賢治が『春と修羅』の冒頭で言及したように、私たちが生きて在ることも「生と死のあわいの明滅」に他ならない訳ですが、だとすれば、植物だけでなく私たち人間の本質も緑という色と関係があるはず。
緑が赤の補色であり、赤が血や赤子など、直接的に生命の躍動や鼓動と結びついていることを踏まえれば、緑という色は「わたくし=青白い照明」が「風景やみんな」と相互依存的な関係の中で現れ、それによってはじめて赤色的な生命活動のあれやこれやが「たもたれ」ているのではないでしょうか。
その意味で、今週のうお座もまた、ともすると動物的な本能に隠れがちな、自分の中の植物的な本質に気付いていきたいところです。
うお座の今週のキーワード
ひそかなる供給者としての植物