
いて座
にわかに現実が神話化するとき

野獣に乗って騎行する女たち
今週のいて座は、フォンテヌブロー派の裸婦に隠された素顔のごとし。あるいは、自身の秘められたルーツや霊的系譜から、改めてエンパワーメントされていくような星回り。
16世紀フランス・ルネサンス期に宮廷で活躍した画家のグループであるフォンテヌブロー派は、古典的調和を意図的に破壊し、新しい芸術動向を模索したマニエリストのなかでも、とりわけ女体への強迫観念に憑りつかされていました。
例えば、フランスで最も由緒ある名門貴族の姫君として愛された誇り高き貴婦人を描いた『ディアーヌ・ド・ボワチエの身繕い』などを見ると顕著なように、フォンテヌブロー派の描く女性の肌は蠟人形のように冷たく、小さな乳房は陶器のようであり、子どもに乳を与えるのにはまったく向いていないし、その手足は家事をするにはあまりにしなやかすぎるように見えます。
美術史家マリオ・プラーツの『官能の庭: バロックの宇宙』の言葉を借りれば、まさに「冷たいエロティシズム」とでも呼ぶべきその独特の官能性は、ルーツをたどればローマ神話に登場する狩猟と貞節と月を司る残酷な少女神ディアーナないし、ギリシャ神話のアルテミスにまでさかのぼれるはず。
否。ギリシアの先住民族の信仰(原始宗教)を古代ギリシア人が取り入れたものでることを考えれば、ディアーナ=アルテミスとは人類の意識が明晰な秩序と合理的な知性をもつようになる遥か前の、ある種の地母神であり、魔女の始祖だったのではないでしょうか。
中世ヨーロッパでは、夜間に異教の女神であるディアーナに導かれて野獣に乗って騎行する女たちの話が各地で伝えられていましたが、フォンテヌブロー派の男たちが描いた裸婦像はそうした理性の奥底に眠る野蛮や狂乱を、人工的な化粧や装飾品によって必死に封印しようとした成果だったのかも知れません。
その意味で、3月29日にいて座から数えて「恋/変」を意味する5番目のおひつじ座で新月(日食)を迎えていく今週は、自身の中に眠っているディアーナ=アルテミス性が不意に目ざめていきやすいでしょう。
魂の邂逅
『シュルレアリスム宣言・溶ける魚 』によってシュルレアリスムを創始したアンドレ・ブルトンには、『ナジャ』という自伝小説があります。それは文字通り、自身のことを「ナジャ」と名乗った女性との偶然の出会いから始まった交際の記録を、自動記述で思いのままに書き綴った作品でした。
「ほら、あそこのあの窓ね?今はほかの窓と同じように暗いでしょ。でもよく見てて。あと一分もすると明かりがついて、赤くなるわ」一分が過ぎた。窓に明かりがついた。なるほど、赤いカーテンがかかっていた。
こうしてブルトンはナジャに戸惑いつつも、急速にのめりこんでいきました。彼は女性に質問する。「あなたは一体何者ですか?」。すると彼女は答える。「あたしは、さまよえる魂なのよ」。
彼女は夢遊病者のようでもあり、また現実を神話世界へ変容させる魔女のようでもあり、彼以外の男性たちにとっては娼婦であったのに、ブルトンにとってはナジャは肉体を欠いた中性的=霊的存在であり続けました。
結果的に彼らの関係は破綻を迎えるのですが、『ナジャ』の末尾に書かれた「美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう」という一節を鑑みるに、2人にとって別れは必然的なものでもあったのでしょう。
今週のいて座もまた、調和でも永遠でもない、一時的かつ痙攣的反応のなかにひとつの美、ひとつの真実を見いだしていくことができるかも知れません。
いて座の今週のキーワード
魔女と逢う/魔女となる





