かに座
闇の中の転換
自己を習うというは自己を忘るるなり
今週のかに座は、『冬の峠夕闇のほか登り来ず』(衣笠葉)という句のごとし。あるいは、つまらない感傷をはさまずに自身のちっぽけさをどこまでも痛感していくような星回り。
峠の上には自分だけという寂しい情景を描いた句ですが、どこか景色の掴み方の根底のところにまごころのようなものが感じられます。
これがもし「冬の山」であったなら、景色は一段と鮮やかに見えるとは思いますが、きれいに決まりすぎていてどこか白けてしまっていたはず。峠には、そこを往来する人びとの感じる四季の変化がり、また往来してきた人びとの歴史を負った風土があります。
掲句のよさはそういうものを作者が心のどこかににじませつつも、それでいて夕闇の迫りくる峠のきびしい山気に身をゆだね切って、みずからの存在を忘れてしまっているような深いトリップ感にあるように思います。
若い頃は自由になりたい、どこでもいいから遠くへ行きたいなどと思うものですが、それで旅をしたり、したくもない回り道をいろいろと経ていくと、人生は汽車に似てレールの外に出れる訳じゃないんだなということが分かってきて、むしろそのレールのごく一部しか使ってこなかったことに気付いてくるのではないでしょうか。
つまり、道を歩んでいく自分自身の存在感よりも、歩かせてもらってきた道のりや歩むことのできなかった道の大きさが相対的にまさってきて、ある種の転換が起きるのです。
12月9日にかに座から数えて「トリップ」を意味する9番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自身を包み込んでくれるような大いなるものに、身をあずけていきたいところです。
闇の中にたたずむ人
夕闇に包まれていく人間で思い出されるものの1つに、歌川広重の浮世絵『真乳山山谷堀夜景』があります。真乳山(まつちやま)とは隅田川の近くの小山のことで、舟で来た遊客はここから徒歩か駕篭で吉原へ向かったそう。そしてこの絵に描かれた芸者の女性は広重がひいきにしていた実在の人物なのだとか。
昼は人の意識を外界に向かわせるのに対して、夜は人の意識をその内奥へと向かわせる。絵に描かれた「闇の中にたたずむ女性」というモチーフも暗闇が生み出す奥行きが、その女性の美をさらに内奥へと誘い込むように感じられてきます。
谷崎潤一郎が『陰翳礼賛』でいうように、日本人は伝統的に白日の明るい世界よりほの暗きものにより一層魅力を感じてきましたが、それは人間描写においてはその人間の負の側面をいかに滲ませるかという形で現われてくるものなのかも知れません。
というのも、美とはつねに悪を正や善に反転させる瞬間を狙っているものであり、掲句もそうであったように、明るく見通しのきく現在が暗い過去や理解しえぬ未来の不可解と結びついてこそ、「翳り」という魅力が生じてくるから。そして翳りとは、日が沈むことによってのみ起きるだけでなく、人間の内面からも生まれてくるものです。
その意味で今週のかに座もまた、ここのところ心の奥底に堆積させてきた「心の闇」がいよいよ表沙汰へと転換されていく機会が訪れるかも知れません。
かに座の今週のキーワード
自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり