おとめ座
いのちをめぐる復習
「あそこも」のまともさ
今週のおとめ座は、『火事かしらあそこも地獄なのかしら』(櫂美知子)という句のごとし。あるいは、時代の痛みを自分なりに受け止め、深めていこうとするような星回り。
消防車のサイレンが鳴り響き、窓から見える遠くの家々のあたりに火の手があがって、もくもくとあがる煙とともに宵闇を赤黒く照らし出している。
「あそこも地獄なのかしら」という反応は、どこか冷たく虚無的ですらありますが、「あそこも」とありますから、「自分のところもいま地獄だけれど」とか「よく最近地獄を見かけるけれど」といったある種の既視感を前提としていることからも、作者もまたその内面にもすでに赤黒い火の手があがっていたことが分かります。
あるいは、これは単に目の前で起きている出来事への反応というより、社会の方々で多くの人が地獄を見ているような時代の空気感をあざやかに描き出してみせてくれているのかも知れません。
だとすれば、現在の闇バイト問題などのように、個々の問題を矮小化したり、自己責任論で切り捨てるのではなく、「あそこも」という言い方で自他の痛みや苦しみをつないでいく作者の態度というのは、言葉のどぎつさとは裏腹にひとりの人間の持ちうる感性の現われとして至極まっとうなものなのではないでしょうか。
12月9日におとめ座から数えて「向き合うべきもの」を意味する7番目のうお座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、少なからず自他の痛みや苦しみをつないでいくことがテーマとなっていきそうです。
谷川俊太郎の「朝」
NHK取材班は2010年に放映したドキュメンタリー番組の中で、地縁や血縁などが解体され、すっかり孤立無援状態になった個人が陥ってしまった孤独を自力ではどうすることもできず、行き詰まってしまっているさまについて「無縁社会」と名付けました。
それから10数年が経過した今、SNSなどを見ていると個人の側でも独り在ることを深く感じたり受け止めたりすることができなくなってしまっているような印象さえ感じます。その意味で、谷川俊太郎の「朝」という詩は、自分がひとりの人間として今ここにあることを深く感じとり、それを詩の言葉で表している稀有な例と言えるでしょう。
また朝が来てぼくは生きていた/夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た
柿の木の枝が風にゆれ/首輪のない犬が陽だまりに寝そべっているのを
百年前ぼくはここにいなかった/百年後ぼくはいないだろう
あたり前な所のようでいて/地上はきっと思いがけない場所なんだ
いつだったか子宮の中で/ぼくは小さな卵だった
それから小さな小さな魚になって/それから小さな小さな鳥になって
それからやっとぼくは人間になった/十カ月を何千億年もかかって生きて
そんなこともぼくら復習しなきゃ/今まで予習ばっかりしすぎたから
今朝一滴の水のすきとおった冷たさが/ぼくに人間とは何かを教える
魚たちと鳥たちとそして/ぼくを殺すかもしれぬけものとすら
その水をわかちあいたい
今週のおとめ座もまた、日記代わりの投稿であれ詩作であれ、そこにきちんと沈潜することを、ある種のセルフケアとして取り入れてみるといいかも知れません。
おとめ座の今週のキーワード
今まで予習ばっかりしすぎたから