
いて座
“愛され”など目指さない

忘れていた根深い感情を
今週のいて座は、「悪尉」の面に宿りしもののごとし。あるいは、人生のにがにがしさをあらためて噛みしめていこうとするような星回り。
人が自身の自尊心の在りようを自覚するのは、多くの場合、それを不本意な形で挫かれた時でしょう。挫かれたものが魂と深く結びついたものであればあるほど、ただ悲しみに打ちひしがれるだけですますことはできず、ある種のコンプレックスや根深い恨みとなって、深いところで本人を突き動かしていくようになっていく。
古来、日本ではそうした不可思議な力の発揮ぶりを「悪」と呼びましたが、その一例に能で演じられる「悪尉(あくじょう)」の面が挙げられます。
この面は、強く恐ろしげな表情の老人の顔で植毛があり、多くは、老神、偉人、怨霊などに用いられてきましたが、歌人の馬場あき子の『悪尉の系譜』によれば、その特徴は「福徳円満しかも欲望に淡白な愛される老境に、あえて進もうとしなかった老いの表情」にこそあったのだと言います。
馬場は、高貴な女御に恋をした年老いた庭守りが辱められる話である世阿弥の「恋重荷」にふれて、「その恋を隔てた階級とは、まさに賤民の情念において捉えられた隔たりなのであり、禁忌としてあったその隔たりへの侮蔑が恋の裏切りとして罰せられたのではなかろうか」と書き、「多くの土着の神々の苦渋、渡来した神々の困難とは、このように悪尉の<悪>たる要素を、幾度も幾度も、にがにがしく噛みしめ噛みしめ生きる外なかったはずである」と述べた上で、その結末においてこう述べています。
悪尉――、その人生のにがさは、回復の方途のない失地に執しつづける<負>の志である。彼はほとんど敗北と挫折の累積の中に老いている。しかし、老いは決して悪尉の悪たるゆえんを解消させはしない。ゆえに悪尉は徹底して自らの非力を信じまいとするのであり、その自恃にのみ自らの存在を賭けているのである。このような哀しいまでの超時間的なエネルギーは、すでに狂ともよびえぬ峻厳な格をそなえて、時に神に近い剛愎さをもって笞を振り上げ、忘れていた根深い感情をよびさますのである。
1月22日にいて座から数えて「潜在的な力」を意味する12番目のさそり座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、敗北と累積の中から自然に起きあがってくる「<負>の志」をここぞとばかりに呼び覚ましていくべし。
締めくくり方こそ大事なれ
例えば、「国破れて山河在り」という詩は日本でも有名ですが、杜甫はこの詩を「白頭かけば更に短く/すべて簪(しん=冠)にたえざらんと欲す」という一節で終わらせており、この締めくくりの一節によってこそ、この詩はいつまでも人々の心に残るような詩となっているように思います。
「簪」すなわち冠とは役人の象徴であり、乱れた世を元に戻すための事業に参画するため、早く仕事に戻りたいという杜甫の思いを表しています。同時に、「白頭かけば更に短く」とあるように、年老いた自分にはそれさえもかなわぬのかという嘆きもある訳で、いやそんなことはないはずだという祈りと嘆きとが、そこには同時にかけられているのです。
これが歯が抜けて物が満足に食えなくなったとか、最後は安らかに逝きたいなどといった個人的な愚痴や願望で終わったならば、この詩のスケール感はずっと小さいものとして尻つぼみに感じられたはず。
それは悪尉の面を宿した年老いた庭守りが、高貴な女御の気を引こうとささやかなプレゼントをしたり、健気に自己アピールして情趣を壊してしまうようなものでしょう。同様に、今週のいて座もまた、ひとつ自分の終わり方まで思いを広げていきたいところです。
いて座の今週のキーワード
大きく終わりを思い描く





