いて座
道ばたで見た花を
「その他」の存在
今週のいて座は、『向日葵にとりどりの花のあはれかな』(杉本禾人)という句のごとし。あるいは、「華やか」であるよりも「あはれ」であろうとしていくような星回り。
庭の庭園にはさまざまな夏の花々が咲いているが、そのなかに王者のごとく突っ立っているのは、やはり一番大きな向日葵(ひまわり)であって、その他の夏草はそれよりも丈も低く、どこか向日葵に気圧されているように咲いている。
しかし、それぞれが特徴的な花の色を備えつつ、姿態も工夫をこらしていて、それがなかなかあわれげに見えるのだと、作者は言っている訳です。
掲句のおもしろさは、王者のごとき向日葵には興味を持たず、その下で「その他」の存在として在らざるを得ない花々が、それでも腐らず健気に自身の一生をまっとうしようとしているところに目を向けているところでしょう。
幼い頃に孤児となり、不遇な境遇で生きてきた作者は、そうした「とりどりの花」の方に自分を重ね、また自己の安んずるところを見出そうとしていたのかも知れません。
その意味で、7月7日にさそり座から数えて「視野の広がり」を意味する11番目の星座であるてんびん座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、世間的な基準や周囲の評価から絶妙に外れたところに自身の居場所を見出していくことができるはず。
失われつつある記憶の発見
新しくてどこか懐かしい。「発見」というのはいつだって、私たちにそんな感触を伴って与えられるものです。例えば、岸本佐知子は父の郷里「丹波篠山」の名を冠したエッセイの中で、「いがぐり頭の十歳くらいの男の子が外から走って帰ってきて、井戸端に直行」し、たらいで冷やしてあるキュウリを「一本つかんでポリポリうまそうにかじ」っており、外では蝉が鳴いているという記憶を、このところ頻繁に思い出すのだと書いています。
けれど、その子どもとはおそらく自分の父であり、だからどう考えても理屈に合わない。そして、ときどき自分と妹をまちがえ、自分の名前さえ忘れてしまう現在の父に丹波の写真を見せても、ただ不思議そうに眺めるだけだという。そうして実際に父が子供の頃に井戸水で冷やしたキュウリが好きだったのか、確かめる機会を著者は永遠に失ってしまった。それを受けて、彼女は次のように書いています。
この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。どこかの誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見た花をきれいだと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていてほしい。
おそくら、冒頭の句の「とりどりの花のあはれかな」というのも、そうした願いに近いのではないでしょうか。今週のいて座もまた、現在進行形で今まさに失われつつある些細な記憶をたどっていくことで、自己の安んずるところを見出していくべし。
いて座の今週のキーワード
本人にすら記憶されていない些細な記憶をめぐって