おとめ座
一つの問いの周りをぐるぐると
没主張・没主義・没思想
今週のおとめ座は、『朽臼をめぐりめぐるや蝸牛(かたつむり)』(西山泊雲)という句のごとし。あるいは、肩の力をぬいて眼の前のある現実と相対していくような星回り。
作者は江戸時代から続く地元の酒造家の生まれで、ふとしたことから破産してしまったところを、いろんな人たちの助力があって、なんとか命脈を保てたのだと言います。
そんな彼の家の庭には使い古された朽臼(くちうす)が置かれており、日頃から何気なく視界のはしにあったのが、改めて生きがいを求めて俳句に打ち込むようになると、その朽臼はまるで待っていましたと言わんばかりににわかに存在感を発揮し始めたという訳です。
そして、掲句ではそんな朽臼をさながらマラソンのゴール地点に設定された競技場のように、ゆっくりゆっくりと「蝸牛」が這っている。ここには作者発の主張や主義や思想などは何ら感じられません。むしろ、そうしたものの一切が剥がれ落ちたところに、ただじっくりと作者は佇もうとしているかのようです。
しかしそれが、仏性を宿しはじめた好々爺のそれなのか、それとも世俗的な意味での目的やメリットデメリットを内面化しすぎた反動としての狂気の沙汰なのかは、微妙に曖昧にされているような気もします。
6月6日におとめ座から数えて「世俗との折り合い」を意味する10番目のふたご座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、色んな意味でいかに気負いをふるい落としていけるかが問われていくはず。
「われ思う、ゆえにわれあり」
皆どこかで一度は聞いたことがあるのではないかというくらい有名なこの一節ですが、一方で、この言葉ほど多くの人に「分かったつもり」になられている言葉もないでしょう。
デカルトはこの世界の普遍的真理を認識していく上での出発点として、あえてすべてを疑いつくすという「方法的懐疑」を掲げ、その到達点として冒頭の一節に至った訳ですが、その過程をまとめた『方法序説』を書くまでに、彼はじつに41年の人生を要しました。
もちろん、着想自体はもっとずっと若い頃に既にあった訳ですが、それを自分で検証するために十分な期間をかけて世の中を遍歴してまわっていったのです。『方法序説』の中にも、次のような箇所があります。
ある種の精神の持ち主は、他人が二十年もかかって考えたことすべてを、二つ三つのことばを聞くだけで、一日で分かると思い込み、しかも頭がよく機敏であればあるほど誤りやすく、真理をとらえる力も劣っている。
とにかく分かりやすく、早く、一度でたくさんのことが分かることに価値を与える現代人にとっては、なかなか耳の痛い指摘ですが、特に物事を「深く知る」ことが求められている今のおとめ座にとっては、こうした蝸牛さながらのデカルトの知的誠実さは大いに指針となっていくでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
「早くわかる」ことよりも「長く考える」こと