おとめ座
懐柔されない狂気
もう一つの明治維新
今週のおとめ座は、「谷底」にあるものの力の発揮の仕方を説いた中山みきのごとし。あるいは、人生のどん底で何をできるかをシュミレーションしていくような星回り。
世界の思想史・文化史の例にもれず、日本の場合も歴史的に一部の神格化された例外をのぞいて女性指導者の名前がほとんど出てこないのですが、幕末になると神がかりした女性教祖たちが各地に登場して、革新的な人間観などの教えを説くようになります。
これは封建制度のもとで抑圧されていた女性が、次第にその自由度や素養が高まるにつれ、既成の道徳や宗教の枠から外れたところで、一気にエネルギーが噴出したものと思われますが、その典型が天理教の開祖である中山みきでしょう。
もともと彼女は奈良の地主の主婦でしたが、長男の病気を治すために山伏の祈祷を受けた際、みずから神がかったのだと言います。もちろん、それは自身でも思いもよらないことで、幾度も自殺を図り、家も没落するなど、一度はどん底に落とされますが、病気治しと安産祈願に力を発揮して次第に信者を増やし、男性たちをも屈服させていきました。
明治維新直前に出された『みかぐらうた』には、「かみがでて なにかいさい(委細)を とくならバ せかい一れつ いさ(勇)むなり」と、神のもとでの平等が説かれ、「一れつに はやくたすけを いそぐから せかいのこころも いさめかけ」と、急いで力を合わせて世直しに尽くさなければならないというビジョンを投げかけます。
その思想は、権力者である「高き山」の横暴をいましめ、「谷底」たる民衆の力による救済を説くものであったため、激しい弾圧を受けるだけでなく、彼女自身も何度も投獄されますが、それでも教えを曲げることなく亡くなる最後まで貫き通していきました。
1月26日におとめ座から数えて「地殻変動」を意味する12番目のしし座で満月を迎えていく今週のあなたにとっても、こうした中山の人生は、強固な信念とその革新性という点において、大いにロールモデルになっていくのではないでしょうか。
予期された懐柔
ここで思い出されてくる作品に、村上春樹の「パン屋襲撃」という短編があります。その中で腹を空かした「僕」と相棒は、パン屋を襲撃しようとする。後に書かれた続編作品において、なぜパッとしないパン屋を選んだのかと妻に聞かれた「僕」は、次のように答えています。
自分たちの飢えを充たしてくれるだけの量のパンを求めていたんであって、何も金を盗ろうとしていたわけじゃない。我々は襲撃者であって、強盗ではなかった(『パン屋再襲撃』)
けれど、襲撃は「成功したとも言えるし、しなかったともいえる」結果で終わります。僕と相棒は「パンを好きなだけ手に入れることができた」が、「強奪しようとする前に、パン屋の主人がそれをくれた」。
「もしパン屋の主人がそのとき」「皿を洗うことやウィンドウを磨くことを要求していたら」断固拒否してあっさり強奪していただろうが、パン屋の主人は「ただ単にワーグナーのLPを聴き通すことだけを求め」、この提案に僕と相棒は「すっかり混乱して」しまい、それは彼らにとって「まるで呪い」のようなものとなって降りかかり、その後に「ちょっとしたことがあって」彼らは別れ、二度とパン屋を襲撃することもなかったのでした。
この小説の時代設定は70年代頭、強奪の代わりに労働による等価交換へと若者の興味が移っていった社会の中で、あえて彼らは強奪を試みながら、「社会」の側に一枚上手の対応をされて懐柔されてしまったのだとも、あえてそこに身を委ねたのだとも言えます。
その意味で、今週のおとめ座もまた、ひとりの「僕」としていかに社会や時代が突きつける問いに返答していくべきか、一つの選択を迫られていくことでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
「社会」の一枚上手をいくために