おとめ座
亡命者と同じように
「世界市民」として
今週のおとめ座は、エドワード・サイードの語る「知識人の使命」のごとし。あるいは、真に知的な思考や行動の原理を打ち出さんと試みていこうとするような星回り。
パレスチナ出身の批評家、研究者エドワード・サイードは、自ら選択したのではなく授けられた名前のなかに、すでに英国王子に因む名でアングロ文化・英語文化への関係を象徴する「エドワード」と、アラブ世界を象徴しつつ出自についての曖昧さを残す家系名である「サイード」という折り合いえない違和を含んでいました。
彼は亡命やディアスポラ(故郷の喪失と離散)の状況を、例えばユダヤ人の2000年にわたる歴史のような現実から比喩の領域へと展開させながら、自身の立場を示すべく、知識人の使命について次のように語りました。
知識人が、現実の亡命者と同じように、あくまでも周辺的存在であり続け飼い馴らされないでいるということは、とりもなおさず知識人が君主よりも旅人の声に鋭敏に耳を傾けるようになること、慣習的なものより一時的であやういものに鋭敏に反応するようになること、上から権威づけられて与えられた現状よりも、革新と実験のほうに心を開くようになることなのだ。漂泊の知識人が反応するのは、因習的なもののロジックではなくて、果敢に試みること、変化を代表すること、動き続けること、けっして立ち止まらないことなのである。(『知識人とは何か』)
これは知識人論でありながらも、同時に現在のような混沌とした世界情勢下においては、脱西欧化され、非中心化された「世界市民」として、何を試みていくべきなのかをめぐって大変重要な示唆を含んでいるように思います。
同様に、13日におとめ座から数えて「情報の受発信」を意味する3番目のさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、「うつろいやすさと漂泊のなかにとどまり続けること」の実践ということがテーマになっていきそうです。
縦軸と横軸の交わり
例えば、鶴崎燃の『海を渡って』という写真集があります。この写真集のテーマは「移民に世界はどう見えているのか」。日本と満州、ミャンマーと日本など、故郷から異郷へと渡ってきた人々の「かつていた場所」と「今いる場所」を対置させていくことで、隔てられた2つの場所、2つの時間を結びつける目に見えない“糸”の存在を読者にまざまざと感じさせていくのです。
人は皆、縦軸=歴史と未来をつないでいく時間の流れと、横軸=同じ時代を生きる人々によって共有されている空間の広がりが交差する地点に生きていますが、こうした作品を見ていると、地球上でほんの少し座標のずれた地点に生を受けただけで、「これは自分の人生だったかも知れない」という不思議な感慨を少なからず覚えていくはず。
中国からの引き揚げ者やミャンマー移民の背後には、大きな時代のうねりが働いていましたが、それは現代日本を生きる私たちにおいてもまったく同じであり、生ある限り彼らと同じように同じ時間の流れの中で自分固有の物語を紡ぎ続けていくのです。
その意味で、今週のおとめ座は、まだ自分が知らない未知の地点へと“糸=意図”を通し、結び付けることで、新たな人生物語の展開をもたらしていくことがテーマとなっていくのだとも言えるかも知れません。
おとめ座の今週のキーワード
「かつていた場所」と「今いる場所」の対置