おとめ座
暴力と昇華をめぐって
放置するのではなく
今週のおとめ座は、「さようなら」という言葉のごとし。あるいは、なんとか延命させつつ引きずってきた過去にひとつのケジメを付けていこうとするような星回り。
竹内整一の『やまと言葉で哲学する』によれば、一般に世界の別れ言葉は①「グッドバイ」のように神の加護を願うもの、②「再見(サイチェン)」のようなまた会うことを願うもの、③「アンニョンヒ、ケセヨ」のような「お元気で」と願うものの3タイプに分かれるそうなのですが、日本語の「さようなら」はいずれにもあてはまらないのだそうです。
そこには「別れに際して、『さようであるならば』と、いったん立ち止まり、何事かを確認することによって、次のことに進んで行こうとする(逆に、そうした確認がないと次に進んでいきにくい)という、日本人に独特な発想がある」わけですが、それは自分が為してきたあれやこれやを、バラバラなまま放置してしまうのではなく、ひと繋ぎにまとめて「物語」にしていくという過程に他ならないのではないでしょうか。
つまり、「さようなら」には、これまでの過去をふまえて現在を「さようであるならば」、あるいは「そうならねばならないならば」と確認する意味が込められている。如意の「みずから」と不如意の「おのずから」とは、両方からせめぎ合いながら、その「あわい」で人生のさまざまな出来事が起きている。「さようであるならば」の確認とは、そのふたつながらの(むろんあいさつとして、いつも意識的ではありえないが、含意としての)確認・総括なのである。先につながる事柄の何たるかは問わないままに、ともあれ「こちら」を生き切ることによって、「向こう」の何かしらとつながっていく、といった発想を日本人が持っていたということである。
世の中には出会いや別れも含めて、自分の力だけではどうにもならないことがありますが、「さようなら」にはそれをそれとして静かに引き受け、物語に昇華していくことで、その「向こう」の何かしらと繋がっていくある種の儀式的なパワーがあったのだと思います。
20日におとめ座から数えて「息継ぎ」を意味する8番目のおひつじ座で新月(日蝕)を迎えていく今週のあなたもまた、そうした物語化の儀式に臨んでいくつもりで過ごしてみるといいでしょう。
"カモ”をやめる
村上春樹はそれまでの作品と異なり8作目の長編小説『ねじまき鳥クロニクル』において、“バットで頭をたたき割る”というかなり暴力的な行為をはじめて登場人物に取り入れました。
英訳を担当しているジェイ・ルービンも村上に「どうしてあんなにひどい暴力が出てくるんだ」と問い質したそうですが、村上によればこれはかなり意図的なものだったようです。
というのも日本の場合、あの大戦争ということがあったため、かなり急進的に平和ということが推し進められ、また和というものに異様にこだわりすぎてきたために、暴力に関してかなり抑圧的になってしまい、暴力=悪ということが固定的に捉えられるようになってしまいました。
けれど「平和の時代」などと言い出す前は、日本も滅茶苦茶やっていましたし、じゃあ社会も滅茶苦茶だったかと言うとそうではない。そこにはある程度のルールが成立していたのですが、現代では暴力に関するルールということさえも感覚的に分からなくなってしまったし、下手に口にすることさえできないという状況があるのではないでしょうか。
ただ、暴力の本質にあるものは、狩猟であれ採集であれ農耕であれ、生き延びるためには必要であり、そういうものは本来誰しもが持っている訳で、それを完全に失ってしまえば単なる“いいカモ”なんです。その意味で、今週のおとめ座もまた、暴力というものを単に「こういうものですよ」と説明するのでなく、自分なりの人生ストーリーのなかで、その真の発露を模索していくべし。
おとめ座の今週のキーワード
たたかい続けるために