おとめ座
美は循環を促す
盲俳人の境地
今週のおとめ座は、『木の実落つ小さき木魂返しつつ』(緒方句狂)という句のごとし。あるいは、視界を曇らす囚われをそっと捨て去っていこうとするような星回り。
作者は30歳の頃に失明した盲目の人で、病気のため46歳で亡くなるまでの16年間の俳人生活のなかで俳句史上に盲俳人としての業績を築き上げた人。この人は目が見えない代わりに、耳を澄ませてじっと聞き入ることで、目で見る以上のことを鮮やかに感じ取り、それを句にしていたのでしょう。
道のはずれか家の庭か、いずれにせよ、単にそこに木の実の落ちるかすかな音を聞き取るだけでなく、小さな木の実にさえ宿っていた小さな樹木の精がスーッと元のところへと返っていった情景をまざまざと思い浮かべていたはず。
目が見えないことで、かえって目に見えないいのちのやり取りや、エネルギーの流れのようなものに鋭敏になるよう、おのれを修練させていったのかも知れません。
少なくとも、俳句をはじめとした芸術の世界は、病人だから盲人だからといって基準が甘くなるような世界でなし。ただ人間として至り得た境地が、そのままあらわれ出るところに芸術の厳しさがあり、作者もまたそういう世界で死ぬまでおのれをひたすら研ぎ澄ませていったのです。
16日におとめ座から数えて「浄化」を意味する12番目のしし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ふだんなら見過ごしてしまうような視界の端のかすかな出来事ほど意識の焦点を合わせていくべし。
マラルメにおける美の原理
恐らくすぐれた俳人の至った境地とも通じる文言として、19世紀後半の詩人マラルメはこんなことを言っています。
ものはすでに存在しているから、われわれはものを創造する必要はない。だからわれわれはものの関係だけをつかむ必要があるだけだ。それで詩もオーケストラもみなものの関係がつくり出す子供である
だとすれば、ものとものとの新しい関係とは、今まで結びつけられてこなかったもの同士が結合するということであり、それは二つの相反するものの結合だったり、遠くかけ離れたものが連結されることで、そうした結びつきこそ、マラルメにとってすぐれた美の原理だった訳です。
例えば、テレビであるお店のおいそうな看板メニューが紹介されているのを見て、ただ「おいしそうだな」と思うだけで、すぐにまた画面に流れてきた次のメニューに関心を移してしまえば、それは情報をただ一方的に受け取るだけのきわめて受動的な結びつきであり、新しい風景は立ち上がってきません。
ただ、もしそこでテレビを消してそのお店に行ってみるとか、自分で実際に作ってみることができたとき、自然と固定化されていたまなざしは解き放たれ、これまで曇っていた視界が晴れてきたり、見えていなかったものが見えるようになってくる。
今週のおとめ座もまた、そんな風にものとものとの新しい関係を紡ぎ出すことで、自身に浄化や循環を促してみてはいかがでしょうか。
おとめ座の今週のキーワード
まず耳を澄ませて聞き耳をたてる