おとめ座
ゾッとする
精神的負荷に対する発作的振る舞い
今週のおとめ座は、20世紀前半のアンダソン神話のごとし。あるいは、延々と続ける訳にもいかない現状を打破するための自己劇化を引き起こしていこうとするような星回り。
一九一二年の一一月末のある日、「長い間、川の中を歩いていたので、足が濡れて冷たくなり、重くなってしまった。これからは、陸地を歩いていこうと思う」と、謎めいた言葉を残してアンダソンは失踪する。小規模とはいえ塗料販売会社社長の地位を投げ捨てたばかりか、妻と三人の子どもたちのいる家庭も捨て、これからの貴重な人生を文学に捧げるべく、成功追求の世界に別れを告げたのである。この時、彼はすでに三十六歳になっており、ポケットにはわずか五、六ドルの金しか入ってなかったという。(『シャーウッド・アンダソンの文学』)
真相は会社の経営不振からくる心労のため、神経衰弱となった結果だったとされていますが、これが後に「虚偽の生活を捨て、真実を追求するための脱出」として好んで語られることになったいわゆるアンダソン神話のあらましです。
今でこそ人生百年時代と言われていますが、20世紀前半のアメリカ人の平均寿命は50~60代後半であり、36歳はもはや晩年に差し掛かりつつある年頃でした。その歳になってもまだ芽が出ないという焦りから、「わたしはわたしである」という一貫性を打ち棄ててしまうという、一種の解離症状を呈した上での発作的な行動だった訳で、見方によっては究極の居直りだったとも言えます。
11月8日におとめ座から数えて「アイデンティティ・クライシス」を意味する9番目のおうし座で皆既月食を迎えていく今週のあなたもまた、何らかの仕方でこれまで維持してきた一貫性を打ち崩す大胆な方策に打って出ていくことになるかも知れません。
不安は自由の眩暈である
しばしば「可能性」という言葉は良い意味でばかり用いられ、まるで「希望」と同義語のように勘違いされがちですが、哲学者のキルケゴールは本当の意味での「可能性」とは「一切のものが等しく可能的である」という事態において感じられる一種の“困難さ”なのだと考えました(『不安という概念』)。
つまり、「可能性」とは何にもすがることなく、誰にも助けを求めることもできず、私が、私だけが何かを今ここでなす、その瞬間に立ち合っている(または、立ちすくんでいる)というゾッとする事態であり、キルケゴールが「不安は自由の眩暈である」と述べる際も、あたかも何でもなしえるという「可能性」がまるでパックリと口を開けた深淵のように姿を現し、その前でひとりの人間が呆然自失とした姿を思い描いていた訳です。
そうした「自分にだって○○はなしうる」という自己尊厳感情にへばりついてくるものとしての不安という洞察は、例えば先のアンダソン神話にも当てはめることができるはず。
今週のおとめ座もまた、「それでも、否が応でも行為し、生きざるを得ない」自分との不協和を、まずはできる限りそのまま受け入れていきたいところです。
おとめ座の今週のキーワード
究極の居直り