おとめ座
迷子入門
ウルフの迷子感覚
今週のおとめ座は、迷子になることへの切望。あるいは、「洋々とした匿名のさまよい人の群れに加わ」っていこうとするような星回り。
20世紀を代表する女性作家のひとりであるヴァージニア・ウルフの長編小説『灯台へ』に、次のような一節があります。
晴れた夕方の四時から六時くらいに家から足を踏み出すとき、わたしたちは友人が知っているような自分を脱ぎ捨てて、洋々とした匿名のさまよい人の群れに加わる。自分の部屋で独り過ごしたあとでは、彼らのつくりあげる社会はとても心地いい。(…)その一人ひとりの人生に、わたしたちはほんの少し身を浸すことができる。自分はただひとつの精神に縛りつけられているわけではない、二、三分の間であれば他人の心身に扮装していられるのだ、という幻想を抱くにはそれで十分だ。
家から遠く離れた異国にいる際に湧いてくるような心許なさや突如迷子になってしまったような感覚は、意識のゆらぎやうつろいに敏感でそれを言語化することに長けたウルフにとってはより身近なものであり、例えば何気なく近所の通りを歩いているときや、家族が団欒している居間の隅で椅子に腰かけているときですら、そうした感覚を感じ取っていたのではないでしょうか。
しかし、精神的な負荷がかかって、住み慣れたはずの環境に堪えられなることで、波にさらわれる浮き輪のように精神がどこかへお出かけし、方向感覚を失ってしまうその瞬間は、同時に無限に続いているような地平線と自己が地続きにあると思える瞬間でもあったはず。
25日におとめ座から数えて「道の途上にあること」を意味する3番目のさそり座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、そうしたウルフ的な迷子感覚につき動かされ、ただ一人でさまよい歩いていくべし。
ヴァルター・ベンヤミンの「遊歩者」
19世紀末に生まれ、近代化の過程でどんどん複雑化していく都市に魅了され、分析の対象にしていったベンヤミンは、「遊歩しながら街について考えることは、“舗道の植物採集”みたいなもの」と述べ、あるいは「通行人や屋根やキオスクのバーは、足元で折れる森の小枝のように……さまよい人に語りかけるはずだ」と書きました。
こうした「遊歩」は、通勤ラッシュに食らいつき、もっぱら職場と自宅の往復に勤しんでいる現代日本の都会人からはずいぶん遠いものになってしまいましたが、コロナ禍によってそうした日常がいったん途切れたことで、多くの人々は再び「遊歩」を取り戻すきっかけを手にし始めているのではないでしょうか。
生産過程が(機械によって)加速されるとともに、そこでの退屈が生まれてくる。遊歩者は悠然とした態度を誇示することで、この生産過程に抗議する。
そう、ベンヤミンにおける「遊歩」とは、行政や新自由主義経済への黙認なのではなく、むしろそうした黙認に伴われる憂鬱な生のテンポへの抗議表明なのであり、そうであるからこそ「採集」は遊歩者にとって生き生きとしたものである訳です。
今週のおとめ座もまた、これまでの袋小路から脱け出していくきっかけをつかんでいくことがテーマとなっていくはずです。
おとめ座の今週のキーワード
波にさらわれる浮き輪