おとめ座
ふわふわしていく
聖霊を制御するなかれ
今週のおとめ座は、キリスト教三位一体論における「聖霊」の働きのごとし。あるいは、聖霊が通り抜けられるよう、みずから穴だらけになっていくような星回り。
キリスト教の教義の中で、神は1つの本質に対して、3つのペルソナ(人格)をもち、それは「父・子・聖霊」ないし「神・イエス・聖霊」であると。そして、その中で聖霊には「派遣」「発出」「霊発」という働きがあるとされています。
霊発は内から外に出ていくこと、息を吐くことで、発出とは行き及ぶこと、たどり着くこと、そして派遣とはミッションであり、いろいろなところで働きをなすことなのですが、それは例えば十字軍遠征のような血だらけの具体性をも秘めている訳です。
いずれにせよ、聖霊というのは誰か特定の個人のなかにとどまり続けるものであるというより、人々のあいだを経巡り、広がりを持った空間に遍在するインスピレーションとして、人に限らず、他の生きものや無生物、器物といったあらゆるものに宿り、強い伝染性や転移性を有しているのだと言えるかもしれません。
当然、自身や嵐などの自然現象や疫病など、人間には制御しがたい出来事の背後にはこうした聖霊の働きが想定され、人類は文明という名目を通して、長らく自分たちの生活や人生を堅固にするべく、聖霊を制御しようとしてきた訳ですが、現代というのはそうしたやり方そのものが行き詰ってしまった時代に至ったのではないでしょうか。
その意味で、6月21日におとめ座から数えて「風通しのよい場所」を意味する11番目のかに座に太陽が入る夏至を迎えていく今週のあなたもまた、そうした「制御」という発想から解放されるべく、改めて環境やインスピレーションに向けて開かれていくことがテーマとなっていくでしょう。
宗教的修行における分身体験
東大寺長老の森本公誠師は、宗教的な修行の最中に自分の分身を見たのだといいます(『私の履歴書』)。
いわく、その男は黒い僧衣を身に着け、目を閉じてじっと座っていたが、自分の顔であった。その姿が次第に小さくなり始めると背景が浮かび上がってきた。自分がお寺の食堂に坐っていた。次第にその自分も食堂も小さくなり、二月堂が見え三月堂が見え若草山が見え春日山が見え、それにつれて自分の姿は米粒のように小さくなっていった。おのれの存在とはそんな小さなものだ、頭のどこかがおかしくなったのかと思いながらも、この風景を凝視しているおのれは誰だと気づいた途端、風景はぱっと消えた、と。
ここで森本は、「黒い僧衣の男」だったり「食堂に坐っている自分」だったり「風景を凝視しているおのれ」であったりして、自分をどこかに固定させず、それらのあいだを聖霊となって吹き抜けつつ、どの自分も否定することなく受け入れることに成功しているのだと言えます。
今週のおとめ座もまた、自己同一性を強固に有する鉄の玉のようなものとしてではなく、ゆらめきや、風や、流れや息吹きのようなものとして自分自身を感じてみるといいでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
視点を浮遊させていく