おとめ座
死者たちを忘れるな
民の無惨さ
今週のおとめ座は、深沢七郎の「殺生」観のごとし。あるいは、何気なく進行してしまっている負の連鎖に歯止めをかけていこうとするような星回り。
姥捨山伝承を題材にした『楢山節考』の作者として知られる深沢七郎は、1980年に短編集『みちのくの人形たち』が川端康成文学賞の受賞作に選ばれたとき、この賞を辞退した経緯を述べた文章のなかで次のように述べていました。
賞をもらうことは仏教の五戒の一ツの殺生の罪を犯すことになると思っていた。(…)相手を殺したり、いじめたりすることも殺生だが、自身をいじめたり、その逆、賛美することも殺生だと思う。賞はそういうものを持っていると私は思う。オリンピックで一位になるには、二位三位を蹴らなければならない。(…)少年が入試のために札を納めて相手を蹴落とすことを神の力にすがる。これは呪詛だし殺生だろう。
昨今の情勢の背景には多くの犠牲者が出ているにも関わらず、どれも権力側の体制強化に利用されてきましたが、深沢の「殺生」観の背景には、そうしたいいように踊らされてきた「民」へのある種のニヒリスティックな愛とも哀しみともつかない思いを湛えた奥深いまなざしがあったように思います。
同様に、4月1日におとめ座から数えて「しがらみ」を意味する8番目のおひつじ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、ほとんどの人間が想起することもないだろう「殺生」の怖ろしさを思い起こしていくことになるかも知れません。
死者との共同体を生きている
19世紀ドイツの悲劇詩人で劇作家のヘッベルには、ある種の鎮魂歌、レクイエムと言える詩が存在します。ただし、その詩が呼びかけているところのものは、死者ではなく、むしろ生者であり、死者たちのために生者の魂に訴えかけていくのです。
魂よ、あの者たちを忘れるな/魂よ、死者たちを忘れるな
見るがよい、死者たちはお前の周囲に漂う/わななきながら、打ち棄てられて。
そして愛の掻き起した/聖なる炎によって、あわれな者たちは/暖を取って息をつき
燃え尽きんとする生命に/これに限りにひたっている。
死者たちのために永遠の安静を祈っているのでも、神に呼びかけている訳でもないという意味では、この詩は厳密にはレクイエムでさえでなく、ただ死者の声を自身に宿らせ、それをその他大勢の生きている者どもへ伝えてくれているのだと言えます。もっと死者の声を聞け、お前たち生者は、生きている者同士の集合においてだけでなく、死者との共同体をも生きているのだぞ、と。
その意味で、今週のおとめ座もまた、すっかり忘れていた誰かの思いがふっと思い出されたり、宿ってきたりといったことが起きていきやすいかもしれません。
おとめ座の今週のキーワード
死者の思いなしとしての言葉