おとめ座
視線の反転
“幻”以上のもの
今週のおとめ座は、マルクスの説いた「ファンタスマゴリア」のごとし。あるいは、自身がそのただ中に囚われているしがらみをきちんと見定めていくような星回り。
さまざまな学を横断して存在論、生命論、人間論などを一つの大いなる連鎖に繋げていったヘーゲルを唯物論的に変形させたマルクスは、資本主義という経済システムの矛盾を明らかにせんと書かれた『資本論』のなかで、4回「ファンタスマゴリア」という言葉を使っています。
これはほとんどの日本語訳ではただ「幻」と訳されているのですが、巨大な幻灯機のことであり、映画の前駆形態を指します。マルクスが生きた19世紀当時、パリやロンドンではファンタスマゴリアの興行が行われており、特にロンドンでは大変な人気だったそうです。
見世物としてのファンタスマゴリアというのは、言ってしまえばガラスと光学機械と照明の詐術なのですが、ありもしないものを舞台上に見せるという意味では現代のVRやARの原型でもありますね。
それをマルクスが何回も、「労働者にとって彼が作った商品は、その瞬間から目の前のガンタスマゴリアでしかない」という言い方でその虚妄を突いた訳ですが、それは単なる“幻”以上に厄介な代物であることがここから分かるかと思います。
4日夜におとめ座から数えて「社会モデル」を意味する11番目のかに座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ある種の幻に魅入られてしまう必然性について認識を深めていくべし。
バス停の遊園地化
いつまで「いつかどこか」の抽象的な幸せや利得のために、現在を生きる身体やこころを犠牲にするつもりなのか。目的過剰の打算的な生き方モデルに釣られ、このまま棒立ちのまま一生を終えるつもりなのか。いつか開いた口に飛び込んでくるボタ餅の幸運を頼んで待つことは果たして幸せと言えるのだろうか。
こうした問いを心から問うことができたとき、これまで重ねてきた選択やそれを実行する主体としての“意志”が、突如として圧倒的リアリティをもつ現実へと変わっていくのです。
例えば、いつまで待ってもこないバスなど無視して、その場に座り込んで生きる。あり合わせの材料で小屋を建て、そのへんで調達してきたもので食事をつくり、バス停そのものを遊園地化していく。はじめは眉をひそめられ、陰口をたたかれることもあるでしょう。けれど、あなたが遠くへ向けていた視線を「今ここ」の現実に戻し、生きていること自体の豊かさに気付いていくとき、そこには新たな現実の種がまかれ、これまで他人行儀だった周囲の人との関わりそのものも変質していくのです。
待つのをやめる。そんな選択もあっていいのだと、今のおとめ座なら気が付いていけるはず。
今週のキーワード
奪われたまなざしを取り戻す