いて座
ぶつかりあってナンボ
他者との身体を通したやりとり
今週のいて座は、『良くも悪くも正体がつかめないもの』のごとし。あるいは、安易にラベリングやカテゴライズすることができない事実を共有していこうとするような星回り。
2021年刊行の『Jodo Journal vol.2』に収録された大橋完太郎と千葉雅也の対談「ポストトゥルースと「創造」の現在」では、国家が記録を改ざんしたり、科学者の出したデータを恣意的に操作したりなど、「なぜかプロセスの消去が通用してしまう(大橋)」日本の政治の現状について取り上げつつ、その背景について「問題は資本主義の劇化の中で、これまでの再分配構造が成り立たなくなってきた(千葉)」という指摘がされていました。
そこでは、少しでも自分の資本価値をあげた人が、マウンティングによって自分の位置づけを獲得していっては、また次の人にマウンティングされていくという形で、アートであろうと占いであろうと、結局はその方法論が資本主義に乗っ取られてしまう訳です。
対談では、民主主義がフィクションであるならば、アートの世界というのもフィクションであり、それは「作り変えることができる」ということだと定義した上で、次のように対話が結ばれていました。
千葉 …科学哲学をきちんと考えている人であれば、科学的なエビデンスはプロセスの中で常に仮固定の状態で出されるものだということを前提としています。それを単純化してしまうことは、やはり僕には耐えがたい。あくまで仮固定の状態を、みんなで話し合ったり、うまくお互いの感情を調整しながら維持していくということが必要であり、それこそが民主主義なのだと言いたいですね。
大橋 民主主義をラディカルに推し進めてしまったTwitterのようなメディアツールは、その意味での民主主義には向かないんでしょうね。あんなに議論ができないメディアツールはないから(笑)
千葉 向きませんね。いま事実を共有できる場所はどこにあるんでしょう。
大橋 それこそがコロナが遠ざけてしまった何かなんじゃないかな。嫌なやつだと思っていたけど、会ったり実際話したりすると実はそうでもなかったというような、他者との身体を通したやりとりによって、知らないうちに人にラベルを貼ってきた自分の狭さを思い知らされる経験がもう少しあり得たと思います。生きるということ自体が、そういう良くも悪くも正体がつかめないものであったはずなのですが、それが単純に、是非の二項対立や党派性といった短絡に落とし込まれてしまうのが問題なのではないでしょうか。
9月3日にいて座から数えて「社会的自己」を意味する10番目のおとめ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、「正体がつかめない」リアリティを誰か何かに簡単に否定されないでいられるような居場所や関係性をこそ大切にしていきたいところです。
ミッションをロックンロールだ!
ここで思い出されてくるのが、『スクール・オブ・ロック』という映画です。みずから立ち上げたバンドをクビにされた時代遅れの熱血ロックンローラーである主人公のデューイは、ひょんなことから名門私立小学校の臨時教員になりすますうち、親や学校から教えつけられた規範のなかで窮屈そうに自分をもてあましていた生徒たちをたきつけ、生徒たちも次第に自分が変わっていくことを実感して、バンドバトル出場を目指して猛練習を始めていく―。
とまあ、あらすじはそんなところなのですが、これはある意味で働く大人たちへの風刺にもなっているように思います。例えば、職場や自身のキャリアの文脈で「ミッション」なんて言葉を使おうものなら、すぐに「ソーシャルグッド」なんて言葉が出てきて、どうしたって立派で大人びたものでなくてはならないような気がしてくるはず。
そんな時に、先のデューイが生徒たちに対して「ひとつのライヴが世界を変える。それがロックンロールのミッションだ!」と息巻くシーンを思い出すとき、そうか、バンドというものが表現であると同時に事業であるならば、個人のミッションだってもっとロックンロールでいいはずだと思えてくるのです。だいたい、必死になって見つけ出した「課題」の「解決」なんて、やるだけつまらないでしょう。
今週のいて座もまた、もっと肩の力を抜いて自身のミッションというものを捉えなおしていくことがテーマなのだと言えます。
いて座の今週のキーワード
恥ずかしくも真剣な衝動に身を任せていくこと