いて座
移ろいと解放
川面さまざま
今週のいて座は、川の流れのように。あるいは、さわさわ、ピチピチした精神の弾力性を取り戻していこうとするような星回り。
都会を逃れた田園生活での、みずからの病的な心理や心象風景を描いた佐藤春夫の『田園の憂鬱』では、さまざまな川の描写が登場します。
そこでは「浅く走つて行く水」は、「ぎらりぎらりと柄になく閃いた」かと思うと、今度は「縮緬(ちりめん)の皺のやうに」という繊細なイメージに変わり、それらは交互にまじわって「小さなぴくぴくする痙攣の発作のやうに光つたりする」といった思いがけない描写が出てきます。
また、その一方で「流れ出て来た水」は、「うねりうねつて、解きほぐした絹糸の束のやうにつやつやしく、なよやかに揺れながら流れた」という描写も登場し、こちらは「絹糸の束」というイメージに託してそこに穏やかな精神の流れが感じとられています。
こうした絶えず変転していく比喩の連鎖は、それ自体が佐藤の精神の不安定さを物語ってしまっているのと同時に、まったき自由に解き放たれた精神の伸びやかな可能性を書くことでみずから取り戻していこうとした作家としての意地をも感じさせます。
2月3日にいて座から数えて「レジリエンス」を意味する12番目のさそり座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、どこかでこうした佐藤の自己蘇生への試みにならっていくことになるかも知れません。
終末の平穏
中国のSF作家・劉慈欣の短編に『月の光』という作品があります。普段は数百万の電灯やイルミネーションに溢れて月の光など見たこともなかった市民らが、中秋節に合わせ、ふと思いたって満月を愉しめるよう街灯を消してほしいとweb上で署名を集めて実現した一夜の話なのですが、その冒頭の一節を引用してみたいと思います。
見通しは間違っていた。月の光に照らされた街は、彼らが思い浮かべていたような、うっとりする牧歌的な眺めではない。むしろ、見捨てられた廃墟に似ている。それでも彼は、その夜景を楽しんだ。黙示録的なムードが独自の美を醸し出し、万物の移ろいと、あらゆる重荷からの解放を体現しているように見える。運命の抱擁に身をゆだねて横たわるだけで、終末の平穏を楽しむことができる。それこそが、彼に必要なものだった。(大森望訳)
劉は長編SF小説『三体』の世界的大ヒットで現代中国SFを代表する人物ですが、あるインタビューの中で自身のSF観の根底に、人類が生存を続けていること自体が不可思議だという思いがあると述べていました。考えてみれば、人類だけでなく、他ならぬ私が生存し続けていることの不可思議、それもまた「運命の抱擁」なのではないでしょうか。
ひとつの時代の終わりを体感していきたい今週のいて座もまた、自分の身に起こっているそんな不可思議を楽しんでいく姿勢をどうか忘れずに。
いて座の今週のキーワード
我もまた大河の一滴