いて座
価値あるものの転倒
檸檬の「私」
今週のいて座は、『爆発せぬ整備不良の檸檬ばかり』(関悦史)という句のごとし。あるいは、価値で固められた価値観を転倒させていこうとするような星回り。
2023年秋の作で、「檸檬(れもん)」は秋の季語。しかし、掲句の檸檬とは風物詩としてのそれというより、梶井基次郎が小説『檸檬』で丸善を爆発させるべく書棚の前に爆弾のつもりで仕掛けてみせた檸檬のことでしょう。主人公の「私」はなぜそんなことをしようとしたのか。その理由は小説の冒頭部分に書かれています。
えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――酒を飲んだあとに宿酔があるように、酒を毎日飲んでいると宿酔に相当した時期がやって来る。それが来たのだ。
いわゆる社会一般的に「よい」、「価値あるもの」とされる上流で高級な趣味に、「私」はいつからか嫌悪を覚えるようになり、逆に「みすぼらしい」、「無価値である」とされるものに不思議と安心感を覚えるようになった、と。そして、前者の象徴としての「えたいの知れない不吉な塊」こそが「丸善」であり、後者の象徴が「檸檬」であったわけです。
しかし、昭和のはじめに書かれたこの作品と同じことは、令和の今ではすっかり難しくなってしまった。誰もがみな、自分が何に心安らぐのかをよく知らず、ましてや、世間で価値あるとされるものを自分なりの感覚で転倒させることなど、想像することさえできなくなってしまったのではないか。掲句はそんなことを訴えているように思えます。
11月5日にいて座から数えて「想像力の果て」を意味する9番目のしし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、自分なりの「檸檬」が作動するよう、しっかりと整備していくことがテーマとなっていくでしょう。
爆ぜる
例えば、江戸時代の三大俳人のひとりとして知られる小林一茶。彼は幼い頃に奉公に出され、中年過ぎまで貧乏生活に耐えながら、都会風の洒脱さを懸命にものにしていきました。しかし、それが『檸檬』の「私」と同様、ある時にふっと変わってしまうのです。藤沢周平の『一茶』には次のような描写が出てきます。
言いたいことが、胸の中にふくらんできて堪えられなくなったと感じたのが、二、三年前だった。江戸の隅に、日日の糧に困らないほどの暮らしを立てたいという小さなのぞみのために、一茶は長い間、言いたいこともじっと胸にしまい、まわりに気を遣い、頭をさげて過ごしてきたのだ。その辛抱が、胸の中にしまっておけないほどにたまっていた。
だが、もういいだろうと一茶は不意に思ったのだ。四十を過ぎたときである。のぞみが近づいてきたわけではなかった。若いころ、少し辛抱すればじきに手に入りそうに思えたそれは、むしろかたくなに遠ざかりつつあった。それならば言わせてもらってもいいだろう、何十年も我慢してきたのだ、と一茶は思ったのである。
この時、一茶の心の中で大きく何かが爆ぜたのでしょう。その後の一茶の句には、それ以前と比べ、明確に自身の背景である信州の百姓としての地声が混じるようになるのですが、これもまた価値あるものの転倒ということの一つのバリエーションでしょう。同様に、今週のいて座もまた、不発弾を爆発させていく機会を得ていくこともあるかも知れません。
いて座の今週のキーワード
えたいの知れない不吉な塊が私の心を圧えつけていた