いて座
日常をひっくり返す
非現実的な光景との出会い
今週のいて座は、『風立ちて月光の坂ひらひらす』(大野林火)という句のごとし。あるいは、自身の日常をひっくり返してくれるような異質なるものと出会う<交通>に開かれていくような星回り。
東京は坂の多い町ですから、上り坂に差し掛かったときなどにスッと眼前に飛び出してくる月の見え方で季節を感じるということ自体はさして珍しいことではありません。
しかし、掲句では秋のさえざえとした月光の下、坂が風に「ひらひらす」るのだと言うのです。あまりに非現実的な光景ではありますが、同時にどことなく可笑しさも含んでいて、月の光が作者に垣間見させた不可思議なアナザーワールドという感じもします。
そもそも、坂や橋というのは単に共同体の周縁に位置するというだけでなく、内/外、生/死、この世/あの世といった2つの世界のあわいにあって無縁性や曖昧性をおびる境界領域であり、日本社会では長らくそこをゆき過ぎる者は神ないし異人との出会いも交歓もまた可能になるとされてきました。
それゆえに、歴史的に乞食や遊女だけでなく呪術宗教者たちもまた、こぞって坂や橋に群れ棲んできた訳ですが、現代の都市圏においては、掲句のように現実が「ひらひらと」裏返っていく光景がある種の都市伝説として各地で報告されているのかも知れません。
9月23日にいて座から「つながり」を意味する11番目のてんびん座への太陽入り(秋分)を迎えていく今週のあなたもまた、そうした境界領域へと積極的に足を延ばしてみるといいでしょう。
賭博、遊歩、収集
例えば19世紀末に生まれたヴァルター・ベンヤミンは、近代化の過程でどんどん複雑化していく都市に魅了され、分析していく中で、「遊歩しながら街について考えることは、“舗道の植物採集”みたいなもの」と述べ、あるいは「通行人や屋根やキオスクのバーは、足元で折れる森の小枝のように…さまよい人に語りかけるはずだ」と書きました(『セントラル・パーク』)。
こうした「遊歩」は、通勤ラッシュに食らいつき、もっぱら職場と自宅の往復に勤しんでいる現代日本の都会人からはずいぶん縁遠いものになっていましたが、コロナ禍でそうした鉄の日常がいったん途切れたことで、再び「遊歩」を取り戻すきっかけを得たはず。
生産過程が(機械によって)加速されるとともに、そこでの退屈が生まれてくる。遊歩者は悠然とした態度を誇示することで、この生産過程に抗議する。
賭博、遊歩、収集―憂鬱に対抗するために行われる活動。
ベンヤミンにおける「遊歩」とは、行政や新自由主義経済への黙認なのではなく、むしろそうした黙認に伴われる憂鬱な生のテンポへの抗議表明なのであり、そうであるからこそ「採集」は遊歩者にとって生き生きとしたものとなり得る訳です。その意味で、「月光の坂」で風に「ひらひら」するというイマージュの、なんと見事に非生産的で、遊歩的であることか。
今週のいて座もまた、そうした抵抗活動にいそしみ、世の成り行きを中断させていくことで、いかに日常の袋小路から脱け出していけるかがテーマとなっていくはず。
いて座の今週のキーワード
「<このままずっと>事が進むこと、それがすなわち破局なのである。」(ベンヤミン)