いて座
狂気と風狂のはざまで
決断という「狂気」
今週のいて座の星回りは、迷子入門。あるいは、決断の奴隷になることをみずから放擲できるくらいの勇気をもつこと。
かつてキルケゴールという哲学者が「決断の瞬間とは一つの狂気である」と書いたように、たしかに良くも悪くも、なにかを決断するという行為は人を盲目にするところがあります。
現代の哲学者・國分功一郎は、そうした盲目的狂気を備えた「決断」をめぐって、「周囲に対するあらゆる配慮や注意から自らを免除し、決断が命令してくる方向に向かってひたすら行動する。これは、決断という「狂気」の奴隷になることに他ならない」と述べており、さらに私たちが常日頃からそうした決断をあえて要請しようとするのも、「実はこんなに楽なことない」からなのだと喝破しています(『暇と退屈の倫理学』)。
確かに生きることの苦しさが増すほど、私たちはみずから奴隷になりたがる傾向にあり、「決断」という言葉に漂う、何か英雄的な響きとは裏腹に、実のところそれはわたしたちに「心地よい奴隷状態」をもたらしてくれる、物事を深く考えずにすむための習慣であり、発明品なのだとも言えます。
なるほど、毎日の通勤時間にルートの選択肢が複数登場するたびにいちいちAかBかで悩んでいれば、職場に着くころにはヘトヘトになってしまいますが、とはいえ、それがある種の「狂気」なのだという自覚さえなくなってしまえば、人は一度築いた習慣からみずからを解き放つこともしなくなってしまうはず。
その意味で、8月12日にいて座から数えて「サバイバル」を意味する3番目のみずがめ座で満月を迎えていくあなたにとって、今週は戸惑ったり悩んだりすることで、いつものコースをはずれていく自由をみずからに与えていくことがテーマとなっていくでしょう。
『俳句の理想は俳句の滅亡である』(種田山頭火)
これは明治44年(1911)に雑誌に寄稿された『夜長ノート』からの一節です。大正期に五七五や季語にとらわれない自由律俳句の旗手として脚光を浴びたこの作者が、他の自由律俳句に撃ち込んだ同時代の俳人と一線を画していたのは、こうした自身の文学理念をそのまま流浪の生活としても実践した点でした。
例えば「分け入つても分け入つても青い山」や「まつすぐな道でさみしい」、「石に腰を、墓であつたか」といった山頭火の句が多くの人を惹きつけたのは、おそらくその余りにまっすぐな表現の背景にある精神性でしょう。
仏教に「捨身(しゃしん)」という言葉がありますが、実際に仏門に入った彼を支配していたのはそうした「捨て身」の精神であり、どこで野垂れ死にしようが頓着しないという風狂の美学であり、彼に妻子があったことを思うとその徹底ぶりは尋常でなかったことが少しは伺われるはず。
今週のいて座もまた、そうした戸惑いや懊悩それ自体を自身の生き様にしようとした山頭火のごとく、みずから「正解」や「大義名分」を放棄してみるといいかも知れません。
いて座の今週のキーワード
「こんなに楽なことはない」と感じたら、それをやめてみる