いて座
ほとばしる魂
こころが一つの詩であるということ
今週のいて座は、「明日よりは春菜採(つ)まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ」(山部赤人)という歌のごとし。あるいは、大切な儀式のためのお供えをしていくような星回り。
万葉集に収録された古い歌です。「春の野で草を採む」というのは、ただそこらの草を遊びでつむというのではなくて、願い事があって、これを特定の場所の、この草を1時間のうちに籠いっぱいきちんと摘みますから、やり遂げたら願い事を聞いてくださいと神さまに誓いを立ててやる、という願望成就の仕草であり、古代日本における卜占(ぼくせん)の一種でした。
この「標めし野」というのも、そういう行事をやるために、まずそこらを囲って標(しめ)を結わなければならないのに、「昨日も今日も雪は降り」それが妨げられてできない。明日こそは、それをついにやらなければ、と。
そういう気持ちで春になったばかりの野を見つめているのです。つまり、自然というのはいつも必ずしも人間の方に都合よくぴたりと波長を合わせてくれる訳じゃない。そうではあるけれど、どこかで少し合うことも私たち人間は知っていて、それをたのむ心が「明日よりは」という言い方のなかに、見事に映し出されている。
その意味で、この歌はそういう自分のこころも一つの詩であるということを表そうとしているようにも感じられます。
そして2月3日23時59分に立春を迎えていく(太陽が水瓶座15度へ移行)今週のいて座のあなたもまた、思わずほとばしり出るような自分の「こころ」のいきおいのようなものを実感していくことでしょう。
孤独の先にあるもの
一つの詩としての「こころ」というと、思い出す話があります。それはフランスの哲学者バシュラールによって1951年に書かれた『夢みる権利』というエッセー集のなかの文章で、聴いている人たちに休息を届けていくラジオは「日常的な仕方で、人間のこころとは何かを提示する」メディアであり、特に「ラジオには、孤独のなかで語るに必要な一切のものがある」という一節。彼はさらに続けて、「(ラジオは)まことに人間のこころ(プシュケ=魂)の全的実現、しかも日常的実現」であるとまで述べていました。
そうした“ラジオ的なるもの”へ寄せられたかつての期待は、テレビ的なるものが完全に飽きられ、人々から距離を置かれつつある今の時代おいて、再び高まってきつつあるように思います。恐らくそれは膨大な情報や無意識的な集団心理が激しくうねり続けている現代において、ひとりひとりがその中で溺れることなく泳ぎわたっていくのに必要な“息継ぎのタイミング”をそっと教えてくれるからではないでしょうか。
そのためには、まず自分ひとり孤独に過ごす夜を改めて確保していきたいところ。そして今週のいて座ならば、そうした夜のなかで雑音の海から浮上し、そっと星の声に耳を澄ませていく「儀式」へ身を投じていくこともできるはずです。
今週のキーワード
孤独、息を継ぎ、そしてほとばしる