いて座
火を灯し続けるために
「悪霊」の時代に
今週のいて座は、「おもひみよネットのかなたしんしんと一万人のスタヴローキン」(坂井修一)という句のごとし。あるいは、たとえ荷の重い神輿であろうと、担ぎ手としての行進を始めていこうとするような星回り。
ドフトエフスキーの小説『悪霊』に登場してくる「スタヴローキン」は、世界的文豪がみずからの魂のすべての記憶を注ぎ込んで、これまで見聞きし、想像してきた中でもっとも「悪」の根源にあると思われるものを取り出し、もっとも醜い人間を描こうとして造形されたキャラクターです。
その本質は、命あるものを愛するという根源的な感覚を目隠ししてしまう、恐るべき狂気的無関心にこそあります。
無慈悲な神のごとき不気味な表情をたたえて、「誰に生きる権利があって、誰に生きる権利や資格もないか」ということを、暴力的な手段を行使して命じていく真空のごとき虚無主義者について、掲句ではインターネットの向こう側に無数に存在しているではないかと訴えかけているのです。
現代にはびこる無関心という悪の果てしなさについて考えるにあたって、例えば7月21日に投票日を迎えた参議院議員選挙などは格好の材料と言えるでしょう。
「1票ではどうせ何も変わらない」し、「どの政治家がどんなことをしようとしているかもよく知らない」という声は相変わらず根強い。
ですが、しし座に太陽が入っていく今週のいて座の人たちは現代を生きるすべての人間の原型に「スタヴローキン」を見つつも、それらと同化すること拒絶し、いかに我慢強く対峙していけるかが問われていきそうです。
「見る快楽」に溺れる人々
「スタヴローキン」に象徴される無関心とは、例えば多少なりとも自分と関わりのある少女が首を吊って死ぬであろうことを予感しながら、みずから動こうともしない。
少女の内面に同化しようとする代わりに、間接的にであれ彼女をそそのかし、人の破滅を見ることのえも言われぬ「見る快楽」に溺れる、極限の堕落という風にも言えるのではないかと思います。
ここで言う「そそのかす」とは、「神のまなざし」に立っているつもりで、その実「悪魔の視点」に立つことでもある。みずから決して手を汚さない点にこそ、その特徴があります。
そして、これは言うまでもなく、他人の不幸であれ国の行く末であれ、炎上騒ぎや祭りの一環として単に憂さ晴らしや消費の対象としてしか見れなくなってしまった多くの現代人に通底する心理でもあるはず。
スマホの画面越し、あるいはテレビのスクリーン越しにしか何かを感じることができなってしまう前に、今週のいて座は自分には何ができるか周囲をどれだけ奮い起こすことができるかを真剣に考えていきたいところです。
今週のキーワード
狂気的無関心