うお座
調和に身を委ねる
涼感に誘われて
今週のうお座は、『橋裏を皆(みな)打仰ぐ涼舟(すずみぶね)』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、「渡りに船」にまんまと乗っかっていくような星回り。
納涼船にのって川をゆくときの体験を詠んだ一句。屋根のない小さな舟にのって、涼みに集まった人たちも、橋の下を通るときはいっせいにのけぞって橋の裏をあおごうとする。
これはつい誰もがやってしまう動作であり、実際にそんな体験などしたことのない人であっても、容易に想像がつくから不思議です。同様に「涼む」というのも不思議な言葉で、単に日陰にいったり体温の低下を経験するだけでは涼むことにはならないのであって、滝の音や水面に映る花火のように、どこか涼感を誘うものに身を委ねることができたときに初めて成り立つ状態を指しているのでしょう。
「渡りに船」ではないですが、「涼舟に橋裏」という組み合わせもまた、そんな「涼感を誘う」もののひとつであり、だからこそ年齢や肩書、価値観などもバラバラなはずの乗客の目が自然と吸い寄せられるかのように一点に集まったのかも知れません。
同様に、7月14日にうお座から数えて「普遍的なパターン」を意味する11番目のやぎ座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、あえてそうした文化的ないし社会的なフォーマットに接続しハマりこんでいくことで妙な一体感を味わっていくことができるはず。
調和性の最小単位
17世紀の哲学者ライプニッツが、かつての秘書であった数学者のクリスチャン・ワグナーから、「先生、いったい魂とは何でしょうか?」という質問に答えるべく送った手紙には次のような一節が書かれていました。
私は物質のうちにいたるところ付加されている能動的原理を認めるからこそ、物質を貫いていたるところに生命の原理、すなわち表象の原理が広がっていると考えます。これはモナドであり、いわば形而上学的アトムであって、部分をもたず、自然的には生じたり滅びたりすることのないものです。
ライプニッツの思想の中枢概念である「モナド(単子)」とは、あえて言うなら「存在を見るための単位」ということになるでしょう。つまり、ライプニッツにとって存在するとは、部分が全体の調和に組み入れられ、部分が部分にふさわしい“居場所”を相互に見出し得ることを意味しており、そうした調和性や相互性が成立するときの最小の個別化の単位がモナドであり、それこそが魂の在り方に他ならないのだ、と。
その意味で、自身に最適な文化的・社会的フォーマットを見つけていくこともまた、モナドとしての調和性を求めていく上でもたらされる必然的な結果と言えるのかもしれません。そして今週のうお座もまた、改めてそうしたふさわしい“居場所”に立っていくべく、みずからが組み入れられるべき全体の調和を模索してみるといいでしょう。
うお座の今週のキーワード
全体の一部としての個別的魂