かに座
濁りと生成
充実の証し
今週のかに座は、『少女充実あんず噛む眼のほの濁り』(掘葦男)という句のごとし。あるいは、未来を感じさせてくれるような身体的兆候を見出していこうとするような星回り。
文学で描かれる少女像と言えば「清らかに澄み切った」という方に振れるのが古今東西を問わずに定石とされるはずですが、掲句はむしろ眼がほんのりと濁ったことのなかに、目の前の少女の「充実」を見出しています。
そして、この場合の「充実」とは、単に自身の食欲を満たした満足感のことばかりを言っているのではなく、身体性の深まりであったり、その結果としての存在としての輝きのことも指しているのではないでしょうか。
というのも、生命というのは透明に澄んでいくよりも、やはり濁ることにおいて外へ外へと力を拡大し強まっていくのであって、それは湧き上がる思いによっておのれを攪拌し、意識が沈殿し底にたまっていくことを拒むことによって初めて可能になるから。
掲句でも、少女の眼の「濁り」は時間の経過とともに強まっていくものとして描かれている訳ですが、それは少女のなかでそうした攪拌や拒絶が起きていることの確かな証拠であり、作者はそこに未来をも感じていたはず。
同様に、7月29日にかに座から数えて「実感」を意味する2番目のしし座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、世間的尺度で自分や周囲の人間を見くびってしまう代わりに、身体性の深まりを通して可能性を感じとったり、よりその可能性を押し広げていきたいところです。
生き方のモデルとしての生成
表面的には色も形も均質的に見える卵の内部は、実際にはさまざまな分化へ向かっている力線に溢れており、しかしどろりとした流動体でしかない卵のなかみは、それがやがて何になろうとしているのか、はっきりと確認できる訳ではありません。
どの部分が将来のからだのどの部位を形づくるのか、また、いつ細胞分裂が始まって、その過程でどんな環境を必要とするのかなど、さまざまなゆらぎを含みながら、多様な形をとるために、それ自身はかたちをなしていない、潜在的な力のかたまりとしてそこに在るのです。
ドゥルーズという哲学者にとって、世界とはまさにこのような意味での「卵(らん)」としてイメージされました。そして、そうした世界を生きるとは、未分化な卵の未決定性を生き抜いていくということであり、何にでも成り得るが、しかし安住すべき拠点も定められた目的もない、そうした“生成”であり続けること。ここで言う“生成”とは、新たなものが生み出されていくある種の流れであり、ドゥルーズはそれを有機的な連続性をもったメロディーのようなものとしてイメージしていました。
今週のかに座もまた、誰にもマネできず、分析(分解)しきることのできない固有のメロディーとして自分を捉えて、その流れにのってみるといいでしょう。
かに座の今週のキーワード
否定性をいっさい持ち込まずに自分自身を捉える