おひつじ座
なんにもないところから
草の海で遊ぶ
今週のおひつじ座は、橋本治の「原っぱの論理」のごとし。あるいは、自分自身を自由な世界へと連れ出していこうとするような星回り。
戦後日本を代表する評論家で知識人であった橋本治の遺稿を元に編まれた『「原っぱ」という社会がほしい』(2021)には、1992年に刊行された『ぼくたちの近代史』に収録された「原っぱの論理」という講演録が再録されており、序文を書いた内田樹によればそれは「この講演が橋本さんの生き方をとてもストレートに語っていたから」だろうと。
で、橋本がいう「原っぱ」というのは何の事かというと、彼が子どもの頃に住んでいた杉並にあった現実の空き地のことだけじゃなくて、もっと広い意味で言っている訳です。
ある意味で、誰のものでもない土地なのね。(…)使い途が何もない土地は、大人にとってみればなんの意味もない土地なのね。ところが子供にしてみれば、草の海があるようなもので、そこに来て遊ぶっていうことをするのね。
ここでいう「遊ぶ」っていうのは、「リーダーがいて、ボスがいて、その子が指示してっていうんじゃなくて、「ああしようよ、こうしようよ」って、3人か4人くらいが、プランナーなり演出集団なりって形で入ってっちゃって、作ってく」もので、そうしてワーワーキャイキャイとして何かしていることによって、自分たちの世界を作ったり、変えてしまったりしていくようなことで。
そういう、誰かがひとりでチョコチョコと何かしていて、「何してるの?」って寄ってくるうちに、スルッと遊びが生まれてくるような、そういう「共有の場所」であり、「人の論理」でもあるようなものを、橋本は「原っぱの論理」と呼んで、いつの時代でもそういうことを全身でやっていきたいよね、ということを言っていたんです。
9月18日におひつじ座から数えて「無縁」を意味する12番目のうお座で中秋の名月(満月)を迎えていく今週のあなたもまた、いっそ原っぱで遊んでいる子どもたちの一人になったつもりで、思う存分ワーワーキャイキャイしてみるといいでしょう。
河原者の遊び方
たとえば、中世や近世の河原はまさに「原っぱ」の世界でした。そこでは牛馬の皮がなめされているかと思えば、布の染色が行われ、毎日のようにどこかしらで踊りや音曲や芝居の歓声が響いていましたし、役者や清掃人、死体処理や庭作りに携わる者、不具者、小説家、遊女などが雑多に身を寄せ合って暮らしていたのです。
彼らは総じて「河原者」と呼ばれ、国や権力の管理が及ばない制度のすきまに生きていました。もちろん、身分制度の社会においては底辺というか、埒外(アウトカースト)に置かれていましたが、これもどこか草の海に隠れて遊んでいる子どもらに通じていますね。
逆に言えば、離農逃散しても、異国者であっても、河原に来れば生き延びることができましたし、そこで体とたましいの力を抜いて、エロティックなことや、火や水のこと、生のことや死のこと、そして河の向こう側の世界のことなんかに、それとなく親しんでいった訳です。
今週のおひつじ座もまた、そうした「河原者」のひとりになったつもりで、どこかの草の海に潜んでまずは力を抜いてゆらゆらしてみるべし。
おひつじ座の今週のキーワード
チョコチョコ、ゆらゆら、キャイキャイ