おひつじ座
推しと不穏は紙一重
忘れられない記憶の点滅
今週のおひつじ座は、『稲妻をふみて跣足の女かな』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、記憶の底から人生を照らす“舞台照明”が不意に点灯していくような星回り。
稲妻が光るのほんの一瞬のことであり、その光が照らし出した地面を「跣足(はだし)」を踏むのは、実際には不可能でしょう。つまり、この句は実際の情景を詠んだものというより、妄想や記憶の断片を繋ぎ合わせて詠んだ一種の「つくりごと」と言えます。
しかし稲妻、跣足、女という言葉のどこか不穏な組み合わせは物語性を帯びており、掲句が単なる事実や説明をこえた神話的躍動感を宿していることは感じられるはず。
例えば、昭和の中頃までの時代には、どこの町や村にも、きまってひとりは狂女がいました。そして、彼女らはやけに薄着だったり衣服の一部をはだけつつ、今にももつれそうに見えて不思議にリズミカルな足どりで、うす暗がりの中白眼の部分が多い両目を中空に泳がせつつ、登下校中の子どもたちの群れとすれ違って行ったものでした。
そうした狂女たちの姿は、どこか日常的な枠内におさまるような目的や手段の結びつきから、どうしたって逸脱してしまうようなアンコントローラブルな人間の性(さが)を象徴するようであり、おそらく作者の脳裏にもいつまでも忘れられない狂女との遭遇の記憶が、自意識の根底のところにこびりついていたのではないでしょうか。
8月26日におひつじ座から数えて「隣人」を意味する3番目のふたご座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、幼い頃に体験した人間体験のプロトタイプ(原型)を追体験させられていくことになるかも知れません。
芸術と人付き合い
存在してくれているだけで、なぜだかありがたい。そう思わせるものには、あなたの魂の片割れが潜んでいます。
例えば、そういうものにお金を払うという行為は、単に消費や浪費や経済的合理性ということを超えて、もっと「自分自身」を感じたいという衝動が潜んでいますし、そうした感覚はあなたが「自分は誰と付き合っていくべきか?」という問題を考える際にも、大変重要なヒントを提供してくれます。
自分を知らず、自分に鈍感な人というのは、他人と付き合うということの根幹を見誤るのです。芸術が必ずしも何かを創るばかりでなく「発見していく営み」だとすれば、その目的語に当たるのは常に自分自身ですし、自分を発見するのが上手な人で、付き合うべき相手を間違えている人というのはまず見たことがありません。
今週のおひつじ座もまた、掲句の作者が狂女を見出したように、有象無象からこれという相手やモノを見つけて、片割れと一つになる感覚を追っていきたいところです。
おひつじ座の今週のキーワード
魂の片割れ