おひつじ座
陳腐の味わい
よろめきながら
今週のおひつじ座は、『人生は陳腐なるかな走馬灯』(高浜虚子)という句のごとし。あるいは、あえて陳腐であることと向き合っていこうとするような星回り。
「走馬灯」は、影絵が回転しながら写るように細工された灯籠の一種で、もとは江戸時代に夏の夜の娯楽として登場しましたが、そこから転じて、今では死に際に見るという自らの人生をめぐるライフレビューの形容する言葉として使われるようになりました。
その意味で、「人生」と「走馬灯」の組み合わせは決まりきった紋切り型のパターンであり、言葉を覚えたての赤ん坊が「まんま」とか「わんわん」と言うのと同じくらい、特別なことはほとんど何も言っていないように感じられます。
ところが、作者はさらに「陳腐なるかな(陳腐であることはもっともなことだなあ)」と続けています。これは赤ん坊の自由な動きのままに言っているのではなくて、老いて力がどんどん衰えてきたり、よろけ気味になったりしながら改めて紋切り型を口にしているわけですが、そこには赤ん坊とは違った味わいのようなものがある。
そう、夢破れたり、戦いに負けたり、孤独に陥ったり、そういう誰しもが経験するであろうありきたりな出来事も、実際に身をもって経験してみると、そこには単に「つまらない」と簡単に切り捨てられないような深い味わいが出てくるものなのではないでしょうか。
8月13日におひつじ座から数えて「息つき果てるところ」を意味する8番目のさそり座で上弦の月(行動の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、泥沼のなかの殴り合いのような不毛な戦いから脱け出していけるかということがおのずとテーマになっていくでしょう。
昭和15年夏の山頭火
俗世間一切を振り捨ててあてどない旅を続けながら「どうしようもないわたしが歩いてゐる」といった、開き直りにも近い諦めとともに甘えや感傷をまっすぐ詠みあげた俳人の種田山頭火は、すでに戦時下に入った昭和14年(1939)に往生を遂げる庵に住みたいと、ひょいと四国の松山にわたり、そこで亡くなるまでの10カ月間にわたり庵を結びます。
しかし彼はそこでも心静かに句作と禅の修行に励んだ訳ではなく(彼は禅寺で出家得度している)、泥酔しては道ばたで寝転び、禁酒を誓ったかと思えば再三にわたり猛省を重ね、といった懺悔と無軌道を行き来する日々でした。亡くなるほんの2カ月弱前の昭和15年7月25日の日記には次のようにあります。
けさもいつものやうに早起したけれど、胃腸のぐあいがよろしくない、飲みすぎのせいだ、のんべいの宿命だ!自粛々々。好きな昼顔を活けて自から慰める。けふも午後は道後へ、一浴一杯は幸福々々!炎天照る々々、照れ々々炎天、ほんにおいしいお酒でありました、そしてだんだんほろにがくなる酒でありました。(種田山頭火『其中日記』)
同様に、今週のおひつじ座もまた、慎ましくも愚かに右往左往する自分を受け入れていくべし。
おひつじ座の今週のキーワード
だんだんほろにがくなる酒でありました