おひつじ座
半信半疑のその先へ
不合理ゆえに我信ず
今週のおひつじ座は、『復活を半ばは信ず蠛(まくなぎ)立ち』(平畑静塔)という句のごとし。あるいは、少しずつでも着実に練り上げていくべきものを思い定めていこうとするような星回り。
十字架にかかって死んだイエスが3日後によみがえると言っていたので、墓は石に封印され番兵まで配置されて固められたが、マリアたちが見に来た時に地震が起こり、雷光のようなものが走って石を転ばした。天より降りてきた御使いはマリアらにイエスは既によみがえってここにはいないと言ったので、彼女たちは墓を去り、弟子たちに知らせようと走っていくと、その先によみがえったイエスがあらわれた―、と聖書には「復活」のことが記されています。
作者はカトリック信者であり、教会へ行った帰り道に自身の心象を実景にからめて詠んだのでしょう。自分の顔にまとわりついて離れぬように「まくなぎ」が飛びまわっていると言うのですが、それはいまだ近代人としての素朴な懐疑から、一抹の信仰の不安を抱える作者の心の曇りや、自己欺瞞的状態を象徴しているようでもあります。
それで「半ばは信ず」という言葉が口を突いて出てくる訳ですが、ここには不敬とも言われかねない否定的なニュアンスを読み取りがちではあるものの、反語としての「半ばは信じない」とは根本的な相違があります。信じられない気持ちも含んではいるが、まくなぎを急いでくぐりぬけて、それでも半ばは信じられるようになってきたのだという、冷静かつ素直な現状認識が感じられます。
5月26日におひつじ座から数えて「日々の鍛錬」を意味する3番目のふたご座に拡大と発展の木星が約12年ぶりに回帰するところから始まった今週のあなたもまた、自身の人間的鍛錬と社会的な体面とを少なからず一致させていくことがテーマとなっていくでしょう。
「みずから」から「おのずから」へ
人間的な鍛錬などということは、それが背伸びしたものでなく、ごく「自然体」でなければ意味はありませんが、この「自」という言葉には次の2つの意味が含まれています。
①みずから:自発的に、自分の意志で
②おのずから:自然発生的に、ひとりでに
これは、端的に①自発性と②内発性と言い換えてもいいかも知れません。自発性というのは、結局、「そうすることでメリット(報酬)があるから」行われる際の原動力となっているもので、内発性は、そういう損得勘定のレベルでの自分の為というところを越えたところで、内側からふつふつと湧いて出て来るもののことです。
そして自分の生き方であれ、キリストの復活であれ、何かが「信じられる」という感覚は、つねに両者が綱引きしあいながら、みずからとおのずからの「あわい」のギリギリの緊張感のさ中で、はじめて立ち上がってくるもの。
今週のおひつじ座もまた、自分は何に対して「みずから」から「おのずから」へと比重を移していく過程にあるのか、改めて自分の胸に問うてみるといいでしょう。
おひつじ座の今週のキーワード
まくなぎをくぐり抜けて