おひつじ座
待つと耐える
忍耐と蜜
今週のおひつじ座は、リルケにおける詩の成立過程のごとし。あるいは、驚きをもたらすような言葉の変化を受け止めていこうとするような星回り。
当時読んだり聞いたりしたときは、いま一つピンとこなかった言葉が、その後何かの拍子に不意に思い出され、以前とは打って変わって砂にしみいる水のように、スッと心に入ってくるだけでなく自身の実存と共鳴し合うといったことは、おそらく誰しもが一度は経験したことがあるのではないでしょうか。
リルケは、こうしたある言葉が一定の忘却期間を経て再発見されていく事態こそ詩の本質に関わるのだとして、次のように述べています。
詩はいつまでも根気よく待たねばならぬのだ。人は一生かかって、しかもできれば七十年あるいは八十年かかって、まず蜂のように蜜と意味を集めねばならぬ。そうしてやっと最後に、おそらくわずか十行の立派な詩を書けるだろう。詩は人の考えるように感情ではない。詩がもし感情だったら、年少にしてすでにあり余るほど持っていなければならぬ。詩はほんとうは経験なのだ。(『マルテの手記』)
そう、詩とは経験であり、その忘却であり、「再び思い出が帰るのを待つ大きな忍耐」によってもたらされるものなのだ、と。これは、言葉がいったん深層心理に埋もれて、その“隠れた意味”を伴って体験されるとき、人をそれをある種の“啓示”として受けとり、それが詩の種となっていくのだ、とも言い換えられます。
11月24日におひつじ座から数えて「神殿」を意味する9番目のいて座へと「鋭い能動性」を司る火星が移動していく今週のあなたもまた、経験の結晶化としての詩行を刻んでいくことができるかも知れません。
倫理は必ずや想像力の働きを求める
個人的なことを述べると、中学3年の時に国語の先生が授業中に発した「自殺とは想像力の断絶である」という言葉がずっと頭の隅にありました。そして後に、それと似たことを19世紀アメリカの哲学者ジョサイア・ロイスが述べているのを発見したのです。
あなたは、(あなたの隣人の)考えや気持ちをあなた自身のそれとはいささか異なったものとみなしている。あなたは言う。「隣人の痛みは私の痛みとは異なっており、私の痛みに比べればはるかに耐えるのが容易なのです」と。あなたの目に映る隣人は、あなたほど生き生きとした存在ではない。(…)ぼんやりとそして何も考えず、隣人のことを分からぬまま見ようともせず、ともに生きている。あなたは、(隣人を)自我をまったくもたぬひとつの物となしている。(『忠義の哲学』)
これがつまり、想像力の断絶ということであり、その意味で私たちは緩慢な自殺のさなかにあるのかも知れません。ではなぜ、そうして私たちは想像力を閉ざしてしまうのか。多くの倫理学者は、それは自己中心的であるからだと言いますが、おそらくもっと直接的な言い方をすれば、隣人の、恋人の、親の、本当の気持ちを知ることが怖いから、そうすることが耐えがたいからでしょう。
今週のおひつじ座もまた、ある言葉を単に口にするだけでなく、腹の底から「経験」していくということがいかに困難で、だからこそ大切なことであるかを、改めて実感していくことがテーマになっていくでしょう。
おひつじ座の今週のキーワード
創造的忍耐