おひつじ座
花として歩く
歩行に文体を
今週のおひつじ座は、歩行者の漂流ないし即興。あるいは、身ぶりを通して周囲の空間を文体的に変貌させていくような星回り。
道行く人びとの歩みぶりは、単に直線的であることはほとんどなく、ある時には道筋からそれ、またある時には曲がりくねっており、それは人びとが文章をつづるとき、必ず「ひねり」や「あや」を加えてしまうのに似ています。
すなわち、どこかへ寄ったり、さまよったり、ショーウィンドウをひやかしたり、ベンチに座って休憩したり、立ち止まって壁のポスターにじっと見入ったりといった、歩行者のおこなう活動やその軌跡は、タッチ(筆さばき、筆の動き)と描きあげられた絵(形、構図、大きさ等)の関係にも広げてみることができるでしょうし、そうして歩行者は空間秩序を自分なりの使い方でずらしたり、つなげたりしながら、ある場所には寄り付かないようにして人気のない場所にしてみたり、かと思えば足しげく通ってにぎやかな場にしてみたり、ふとした思いつきや偶然から生まれた「表現」によって、その一歩一歩のあゆみによって、空間の質そのものの組み替えに関与している訳です。
その意味で、2月8日におひつじ座から数えて「身体性の回復」を意味する2番目のおうし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、軍隊の兵隊さんのように四角四面に歩くのではなく、跳びはねたり、四つ足で歩いたり、ある時には至極ゆっくりと、また軽やかに踊ったり、散歩したりして、空間の質を豊かにしてみるといいでしょう。
「住する所なき」が花
世阿弥が完成させたと言われる「能」は、現在の私たちからすれば古臭い伝統芸能ですが、実際に世阿弥が生きた室町時代においては、目まぐるしく変わりゆく最中にあった「新興の前衛芸術」であり、今そこで作られつつあるものであり、そこではまずもの珍しさが求められ、新しさが観客の関心のまとであり、毎公演ごとに変化していくことこそが芸術の価値でした。
その意味で、例えば彼の遺した「住する所なきを、まず花と知るべし」という言葉の「住する所なき」とは、住居のことではなくて、「同じ所にとどまり続けることなく」の意味。すなわち自己模倣のうちに同じことを繰り返してしまう惰性の人生のことを指し、たえずそうした惰性の罠から脱け出し、跳びはねていくことこそが「花」=芸術の中心なのだと言っている訳です。
今週のおひつじ座のテーマを言い換えれば、これまでの自分のままでやっていこうとする「住する」の精神をどこかで捨て、卒業していくということでもあります。世阿弥の言葉は厳しいですが、今こそ耳を傾けていきたいところ。
おひつじ座の今週のキーワード
自分自身こそが芸術の中心たれ