おひつじ座
ものの見方の変調
なまなましさの感覚
今週のおひつじ座は、「水中より一尾の魚跳ねいでてたちまち水のおもて合はさりき」という葛原妙子の歌のごとし。あるいは、ひとり常識的なものの見方に、変更を迫る歌を詠んでいくような星回り。
魚が跳ねて、「たちまち水のおもて合はさりき」と詠んでみせるこの作者の認識と判断は尋常ではない。
水面という一枚の膜を魚が突き破るようにして跳ね上がったその瞬間、破れたはずの水面は、しかしたちまちのうちに閉じてしまったのだと言うのだ。
私たちは普通、出来事のそんなところに着目することもなければ、それを歌にしようなどとは微塵も思わないだろう。けれど作者はそれをやってみせた。
それは簡単なことのようで、いざやってみようとすると何をすればいいのか思いつくことさえできなかったりする。
この歌が教えてくれるのは、私たちがふだんものを見る時、いかに常識的なものの見方しかしていないか、ということであり、今週のあなたにおいてもまた、そうした常識的なものの見かたをいかに捨てることができるかが試されていくのだと言える。
うまくいけば、世界はかぎりなく豊かで恐ろしくもある素の表情を見せてくれるはずだが、これは逆に言えば、常識的なものの見方に頼っているとき、私たちはそうした世界のなまなましい表情を見失っているのだ。
裸の王様と子供
あなたは自分のことを、おろかな知恵者か、かしこい愚者か、そのどちらに近い存在だと思っていますか?
「――子供の頃、独りで広場に遊んでいるときなどに、俺は不意と怯えた。森の境から……微かな地響きが起こってくる。或いは、不意に周囲から湧き起ってくる。それは、駆りたてるような気配なんだ。泣き喚きながら駆けだした俺は、しかし、なだめすかす母や家族の者に何事をも説明し得なかった。あっは、幼年期の俺は、如何ばかりか母を当惑させたことだろう!泣き喚いて母の膝に駄々をこねつづけたそのときの印象は、恐らく俺の生涯から拭い去られはしないんだ。」(埴谷雄高、『死霊』)
こうした、私が私であることへの「怯え」、あるいは自分が人間であることへの不快には、身に覚えがある人もいるでしょう。
その「戦慄」や、「うめき」こそが、どこで覚えた訳でもない、常識に曇らされず見ていくことができる、ほんとうの現実なのかもしれません。
そういうことが、今週はすこし分かるのではないかと思います。
今週のキーワード
常識的であることと何事もないことは等しい