おとめ座
この世との繋がりの話
某短編について
唐突ですが、最近扶桑社から出て話題になっていた某短編を購入しました。実話かフィクションかは分からない。けれど、タイトルの字面に惹かれて、いやもっと言えば、あんなタイトルの本を出版しようという著者のことがもっとよく知りたくて、最近控えていたAmazonの1クリック購入を咄嗟にしてしまったのです。
結果的には大成功だったと思います。この原稿を送らなければならないので、まだあとがきと冒頭24Pまでしか読んでいませんが、著者が生半可な気持ちでタイトルの肝となる表現を選んだ訳ではないのだという、覚悟のようなものは十分過ぎるほどに伝わってきました。
なぜここでこんな話をしているかというと、なんだか今週おとめ座の方に伝えたいことは、この著者がこのようなタイトルの本を世に出したという圧倒的事実の前では、自分がどれだけ言葉を弄しても霞んでしまうと思ったからです。
自分だけのことについて懺悔告白した話なら、恐らくそれほど心は動かされなかったでしょう。けれど、この本で語られているのは夫の局部の話、すなわち夫婦の繋がりについてであり、著者にとってそれはこの世との繋がりそのものを問う行為でもあったのではないでしょうか。
今週おとめ座の方に伝えたかったのは、まさにそこなのです。
自らの行為によって、これまで自分の世界を繋ぎとめてきた命綱を失うかも知れないし、かえってそれに代わる新しい繋がりを作り出せるかも知れない。そんなギリギリの賭けに臨む者にしか出せない独特の緊迫感と、無駄のない的確な文体。
両者を持ち合わせた著者だからこそ、やはりあのようなタイトルでしかあり得なかったのでしょう。
飲み込んだ言葉は地下水となる
この本のあとがきは、なぜか最後の十数行だけ、直筆で書かれています。
そこを読むと、当初著者はこのタイトルでは世に出すのは難しいだろうと考えていたこと、けれどそんな著者を力強く励ました編集者をはじめ、多くの熱心な協力者の後押しがあって、ついに出版までこぎつけたのだということが分かります。
と同時に、夫や両親には本が出版されたことも、同人誌や商業誌で執筆していることも内緒であること、いつかこの本を直接渡したい旨なども静かに綴られています。
なんという裏腹さでしょうか。けれどそんなふうに、自分だけがなぜと感じつつも、身近な人にはうまく伝えきれず、地下水のように内向し潜伏していった言葉が、ある日ひょっこり山道の脇から湧き出て、たまたま通りかかった人々の渇きを癒すことがあるという事実には、どこか人の胸を打つものがあります。
そして、それを地で行った著者に例えようもない尊さを感じる一方で、きっとすべてのおとめ座の人の中にも多かれ少なかれそんな地下水があるのだろうとも思うのです。
「自分の恥を全力で晒しにいった」とき、地下水は新たなこの世との繋がりをつくり出す。その一つの事例として、ぜひ某短編のことを心に留めてみて下さい。
今週のキーワード
自分の恥を全力で晒しにいく