おとめ座
自己をわするるる
2種類の貧しさ
今週のおとめ座のテーマは、「内なる貧しさ」への開かれ。あるいは、人としてもっと自由な在り方を追い求めていこうとするような星回り。
鎌倉時代に踊り念仏を広めた一遍上人は「捨てることを捨てよ」と説きましたが、ほぼ同時期のドイツに生きた大神学者で「ドイツ神秘主義の源泉」と言われるマイスター・エックハルトもまた<内なる貧しさ>という言い方でそれに相通じる教えを説いていました。
いわく、積極的な意味での<貧しさ>には2種類あり、1つは「外なる貧しさ」、つまり物を所有することなく文字通り貧しく生きようとする生き方。そして、それよりもっと本質的かつ徹底的なのが「内なる貧しさ」で、これは所有の真っ只中にあって、しかもその所有関係の囚われから自由であるような人間のあり方のことを言うのだ、と。
エックハルトによれば、どんなに懺悔や祈りや徳の修練を行って「聖者」と呼ばれるようになったところで、まだ本人のなかに神に愛されようという意志がまだ残っているかぎり、「外なる貧しさ」にとどまるのであり、それは「内から見れば愚かなロバでしかない」のだとまで言うのです。
いくら物質的な所有物を捨てても、おのれの意志を捨てなければ無にはなりきれない、つまり神と一つにはなれないのだということですが、これは仏教における「仏道をならふといふは、自己をならふということなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり」という教えとやはり不思議に一致してくることに気が付きます。
9月22日におとめ座から数えて「生きがい」を意味する2番目のてんびん座へ太陽が移っていく(秋分)ところから始まる今週のあなたもまた、生活のなかでわずかでも自意識から離れ、意志を捨てられる瞬間を見つけ、一秒でも長くそれを感じられるようにしていきたいところです。
捨聖(すてひじり)の極意
一遍は、この世の人情を捨て、縁を捨て、家を捨て、郷里を捨て、名誉財産を捨て、己を捨てという具合に、一切の執着を捨てて、全国を乞食同然の格好で行脚していきましたが、その心中にあったのは敬愛する先達・空也上人による、次のような教えでした。
念仏の行者は智恵をも愚痴をもすて、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願にもっともかなひ候へ。(『一遍上人語録』)
こうして捨てることのレベルを上げて畳みかけていった先で、一遍は「捨ててこそ見るべかりけれ世の中をすつるも捨てぬならひ有りとは」という歌を詠みました。いわく、捨てきれるだろうかというためらいさえも捨ててしまえばいい。あらゆるものを捨てた気になって初めて、捨てきれないものがあることに気付くのである、と。
今週のおとめ座もまた、どうしても捨てきれないものの実感ないし痛感にまで一挙にたどり着くことは難しくとも、まずは折に触れて一遍の歌を読んでみるといいでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
「捨ててこそ見るべかりけれ世の中を/すつるも捨てぬならひ有りとは」