おとめ座
天の一声
月待ちの晩に
今週のおとめ座は、『月光の象番にならぬかといふ』(飯島晴子)という句のごとし。あるいは、なにかをじっと凝視したり逆にされたりしていくような星回り。
誰に言われたのかも定かではなく、「月光の象番」なるものもまったく得体が知れない。むしろ掲句そのものが日常的でありきたりな解釈の一切を拒んでいるかのような印象さえ受ける。
というより、月夜の見せる夢というのはよくできた占いに似て、すべからく手垢のついた意味という意味から離れてひょいと浮いているものなのではないか。
例えば、東アジアには昔から「月待ち」という何人かで集まって飲食をしながら月の出を待つという伝統があるが、あれはなぜ待たなければいけないかという明確な理由がある。道教由来の説で、人の腹中にいるとする三尸(さんし)という虫が小さな悪であっても感知し、庚申の晩に昇天してはそれを天帝に告げ、人の寿命を縮めるのだと信じられてきた。
もちろん、そんなことは気にしないという人もいるだろうが、中には三尸の昇天を阻止することに長けている者もいて、そういう人間というのは、得てして月の目と自分の目が不思議とよく交わるのだ。
掲句もまた、そういう不思議に突き当たった人間が月待ちの晩にたまたま見た一夜の夢という風にも解釈できる。
9月18日におとめ座から数えて「他なるもの」を意味する7番目のうお座で中秋の名月(満月)を迎えていく今週のあなたもまた、おいそれと「わかる」などとは言えない、得体の知れない夢にいつの間にか侵されているかも知れない。
菩薩が菩薩たる由縁
中世には、近代的な「個の自立性」という発想に囚われない発想が豊かにありましたが、13世紀に成立した説話物語集『宇治拾遺物語』には、次のようなお話が収録されています。
信濃国の筑摩という町に薬湯があり、あるとき近くに住んでいる男が夢のなかで「明日正午に観音様が髭をはやし馬に乗った三十歳くらいの武士の姿をして湯あみに来られる」という声を聞き、目を覚ましてから人びとにその夢について話し、多くの人が温泉で待ち構えていたところ、はたしてその通りの格好をした武士が現れたという。みなが平伏していると、武士は驚いてみなに何をしているのか尋ねたけれど、誰も返事をしなかった。ついにみなの中の僧侶が理由を説明すると、武士は狩りをしているときに落馬したのでやってきただけだと語ったにも関わらず、みなはこの武士を拝み続けた。しばらくの間、男はこの温泉にとどまっていたが、やがて「自分は本当に観音様だ。自分は法師にならないといけない」という考えが浮かんで、武器を捨て、僧侶になってしまった。それを見て、人びとは大いに心打たれたという。
このお話のポイントは、以前は武士であった男性が有名な僧侶になったとか、多くの人を救ったといった妙なヒロイズムに陥っていないところです。男性は単に普通の僧侶なのであり、それこそが菩薩が菩薩たる由縁なのではないでしょうか。
同様に、今週のおとめ座もまた、自分の意思が及ばないところで自分が方向づけられていく感覚を大いに味わっていくことになるでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
何か大いなるものに身を委ねてお任せすること