おとめ座
点と点とを結んでいく
「つつ」の独特
今週のおとめ座は、良寛の「毛まりつきつつ」のごとし。あるいは、1/fの心地よいゆらぎのリズムを刻んでいこうとするような星回り。
江戸時代の乞食僧で日本史上屈指の漢詩人・歌人であった良寛の歌には、「毛まりつきつつこの日暮らしつ」といったように「つつ」という言葉がひんぱんに登場してきます。
これは2つの行為が並列にならんでいることとは全然違います。子どもらと毛まりをついて遊んでいることと日々の暮らしが重なりあっているんですが、そこにずれも生じさせながら、反復していっているんです。
意味としては、「つつ」というのは、なにかをしながら他のなにかをしている、ということなのに、例えば、「ごはんを食べつつ今日も暮らしつ」とか「占いの文章を書きつつ今日も暮らしている」など書いてみても変な感じになってしまい、良寛のようにはうまく「つつ」がつながっていきません。
良寛の「つつ」は、もっとこうAをしていてBをしているの、AとBとが少し互いに近寄りあっているというか、時間的な前後がありながら、空間的に同居していて、まさに手まりのようにずれあいつつ響き合っている、差分的リズムがそこにあって、それが微妙な震えとか、繊細なゆれのようなものをもたらしているんです。
6月14日に自分自身の星座であるおとめ座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、そんなふうに自分をいい感じに振るわせてくれるような「つつ」を、日々の中で探求してみるといいでしょう。
「部分」にこだわる
西洋では長いもの、大きなもの、派手なものが好まれ、小品よりも大作の方が評価が高い傾向がありますが、日本では逆に短いもの、小さなもの、地味なものが好まれ、それが端的に現われたものが随筆でしょう。
方丈記にしろ徒然草にしろ枕草子にしろ、そこにあるのはてんでばらばらな話題の寄せ集めで、そこには全体を律するプランというものはありません。西洋のエッセイは形式こそ自由ですが、ゆるやかにせよ建築的なプラン(全体の構図)はしっかりとあり、こういうものを読みなれた西洋人が日本の随筆を読んだら、そのずさんさと統一感のなさに唖然としてしまうかも知れません。
なぜこうした違いが出てきてしまうのか。それは日本人が「部分」あってこその「全体」という考えやこだわりが強く、ほとんど「全体」など眼中にないからでしょう。「全体」はあくまで後からついてくるものであり、偶然的なものの結果でしかないのです。
フランス文学者の野内良三はこうした日本特有の随筆や和歌、俳句などを「部分の芸術」と呼びましたが、「今ここ」が問題となる偶然性においては、自然と「在ることの可能性が小さいもの」に注目するスタンスが大事になってくるのです。その意味で、今週のおとめ座もまた、ミクロの視点をこそ改めて大切にしていきたいところです。
おとめ座の今週のキーワード
つれづれなるままに