おとめ座
大河の一滴
墓場で運動会?
今週のおとめ座は、「帰るところ」を提示する浄土系仏教のごとし。あるいは、心朽ちた巷からの逃げこみ先に目ぼしをつけていこうとするような星回り。
宗教学者の釈徹宗は、『法然親鸞一遍』の中である韓国の宗教学者の弁として「日本人の宗教性を最もよく表しているのは『夕焼け小焼け』の歌だ」という言葉を紹介しています。
夕焼け小焼けで日が暮れて/山のお寺の鐘がなる/お手々つないで皆かえろ/烏と一緒に帰りましょ
子供が帰った後からは/円い大きなお月さま/小鳥が夢を見る頃は/空にはきらきら金の星(中村雨紅作詞)
釈はここで語られる「夕焼け」「お寺の鐘」「お手々つないで」といった言葉の連なりに着目し、これらは「共生感覚」「生命感」「無常観」「深みのある悲哀感」など、「日本の宗教的情緒を見事に象徴しています」と言及していますが、大正時代に書かれたこの歌詞の言葉はもはや現代ではすっかりリアリティを失ってしまったように思えます。
とはいえ、日本人から宗教的情緒そのものがなくなってしまった訳ではないはず。だとすれば、現代において「いっしょに帰るところ」を指し示す日本語があるとすれば、それはどんな表現になるのでしょうか。
11月5日におとめ座から数えて「救い」を意味する12番目のしし座で下弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、それくらい大きな視点から自分のこころの支えとは何かということについて、考えを巡らせてみるといいかも知れません。
志賀直哉の『ナイルの水の一滴』
人間が出来て、何千何万になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生れ、生き、死んで行った。私もその一人として生れ、今生きているのだが、例えて云えば悠々流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は後にも前にもこの私だけで、何万年溯っても私はいず、何万年経っても再び生れては来ないのだ。しかもなおその私は依然として大河の水の一滴に過ぎない。それで差支えないのだ。
ここには2種類の自己認識が語られていて、一つは自分は数えきれない人間の生き死にによって生じる「悠々流れる大河の一滴」に過ぎないというもの。もう一つは、しかしその一滴は「後にも前にもこの私だけ」だという一回限りの唯一無二だという自己認識です。
少なくとも、恩師である漱石の訃報に触れて書かれたともされるこの文章を書いたとき、志賀の頭にはかけがえのない「一滴」は決してむなしいものではなく、しかし同時に、やはりどうしようもなく「大河」に帰っていくものであるというイメージが浮かんでいたのではないでしょうか。
今週のおとめ座もまた、自身の死生観をあらためて確認させられていく機運が高まっていきそうです。
おとめ座の今週のキーワード
でんでんでんぐりかえってバイバイバイ