おとめ座
おてんとうさまは見ている
叡智に出会う
今週のおとめ座は、「徳」という概念のアップデート。あるいは、「学識はないが学者である」ような人物をこそロールモデルとして仰いでいこうとするような星回り。
キリスト教思想家の内村鑑三は、主著である『代表的日本人』の中で、時を超えて日本人の心に生き続け、語りかけていくだろう「永遠の人」の例として、西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人の生涯を取り上げてしますが、中でも同じ教育者として深く敬愛していたのが江戸時代初期の儒学者・中江藤樹でした。
“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が、学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である。
ここで言う「学識」とは、専門的知識とも言い換えられますが、あくまで間接的情報であって、いくらそれをたくさん持っていたとしても、その対象を直接知ってたことにはなりません。その点、内村は中江藤樹との内的対話を通じて、情報or知識を得ることと叡智に出会うことはまったく違うことなのだと強調している訳ですが、後者の核は端的に言えば「与えられるもの、訪れるもの」としての「徳」であり、その根源こそ内村が取り上げた5人の人物をつらぬいて脈々と息づいてきた、彼らを越えた存在としての「天」でした。
つまり、人間が何かをするのではなく、人間は無私になって天の道具になるのがもっとも美しく、天の声に耳を澄まし、天の命を聞き届けていく態度こそが「徳」であり、それによって培われるものこそが叡智に他ならないのだと、内村は考えていたのでしょう。
その意味で、6月26日におとめ座から数えて「財産」を意味する2番目のてんびん座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、無学者の精神に立ち返って知識ではなく叡智をこそ仰いでいくべし。
「老後の初心」
この言葉は能の大成者である世阿弥のものですが、彼はそれについて「命には終わりあり、能には果てあるべからず」(『花鏡』)とも述べています。
そう、人生には終わりがある。しかし、新たな事態を乗り越え続けていくことによって、何歳であろうとも、人はいつでも自分の人生を生き直していくことができる、と。
例えば、年老いて聴覚を失ったベートーヴェンや、視力を失った舞台芸術家の友枝喜久夫などは、まさに「芸術には果てあるべからず」を体現するかのようです。
世阿弥にとって芸術(能)とは、ひとりの人間の射程をはるか超えるものであり、そうしたはるかな射程の中に改めてひとりの人間を位置づけていくものでもありました。これもまた、天の命を聞き届けていく態度=「徳」ということの、彼なりのアップデートだったのではないでしょうか。
そして、こうした過激なほど未成熟へ向かう思想こそ、まさにいまのおとめ座に必要なものであり、高じればそれは必ずや芸や技の研鑽法に限らず、生き方そのものまでスケールアップさせてくれるはず。
おとめ座の今週のキーワード
「命には終わりあり、能には果てあるべからず」