おとめ座
魅力のある運命とは何か
不確かな存在としての自分
今週のおとめ座は、『人殺す我かも知らず飛ぶ蛍』(前田普羅)という句のごとし。あるいは、善にも悪にも転んでいくだけの余地を自分の中に見出していこうとするような星回り。
和歌の伝統において、好きな男のもとへただよい出ていく女の魂を詠んだ歌というのは、古来より散見されてきましたが、掲句は殺意を抱いて相手を殺してしまうかも知れない「我」を詠んでいるという点で一線を画しています。
しかし、人間というのはちょっとしたきっかけで善にも向かえば悪にも転ぶ、まことに不確かな存在であり、作者に思い当たる節があるにせよ、たとえまったくなかったとしても、絶対に「人を殺す我」とはならないという道理はない訳です。
作者はむしろここで、いっそ「人殺す我かも知れない」と思い切っている。そして、すっとどこかへ飛んでいく蛍に、そんな自分を託しているのでしょう。
その意味で、下五の「飛ぶ蛍」とは、自分がどんな拍子でどう転ぶか「わからない」ということを、他の誰か何かに転嫁して責めたり怒ったりするのではなく、<宙づり>にしたまま受け入れていくための、何気ない仕草のようなものとも言えます。
6月21日におとめ座から数えて「コントロールを超えた環境」を意味する11番目の星座で夏至(太陽かに座入り)を迎えていく今週のあなたもまた、天使が足を踏み入れるのも恐れるような場所へも踏み込んでいきたいところです。
ギリシャ悲劇における意志の扱い
悲劇というのは、主人公が何らかの抗しがたい運命に巻き込まれ、自分の思うとおりに行為できないものです。こうしたいけど、こうできない。または、何気なくやってしまったことが想定外に大きな効果を持ってしまう。そのためか、悲劇が盛んに作られ、語られたギリシャには、今日の近代的な自立した人間像を共有している私たちがイメージするような意味での意志の概念をあらわす言葉さえないのだそうです。
しかしギリシャ学者ジャン=ピエール・ヴェルナンは、そこに一歩踏み込んで、悲劇における登場人物たちには加害者である側面と被害者である側面が混ざり合っているけれど、それらは決して混同されることなくその両方の側面があるのだということを言いました。
もちろん近代的な考え方ではそんな矛盾した立場は認められませんが、ヴェルナンは運命の強制力と人間の自由意志の力の両方を肯定していくところこそが、ギリシャ悲劇の不思議さであり、魅力なのだと考えたのです。そしてその点で、掲句という悲劇の作者もまた、加害者と被害者の両方の側面を持っていたのだということが分かります。
同様に、今週のおとめ座もまた、被害者の側面と加害者の側面を混同することなく、その両面から自身の運命というものに向きあっていくべし。
おとめ座の今週のキーワード
つまらない自己責任論に囚われない