おとめ座
「現在」の芸術
素足で立つということ
今週のおとめ座は、素直にくつを脱いだモーセのごとし。あるいは、中途半端にしがみついている体裁や立場から脱却していこうとするような星回り。
「運がいい」とは、その人がそのタイミングで立つべき場所にきちんと立っている、ということでもありますが、逆に言えば、私たちは人生を通じてしばしば立つべき場所を見誤るがゆえに運を逃してしまうのではないでしょうか。
例えば、エジプトで殺人を犯した若き日のモーセの場合。聖書によれば、彼は遠く離れた地に身を隠し、所帯を持って羊飼いをしていたのですが、あるときシナイ山の麓で神に呼び止められ、「ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである」と言われたのだとか。いわく、神は燃えるしば(ブッシュ)の中にいた。そこに「近づくな」と言う。モーセは足をとめ、神のいる所から距離を置いてから、サンダルを脱いだ。そのとき神は「お前の立っているその場所が聖である」と言ったのだとか。ここはじつに不思議なくだりです。
というのも、普通なら神の立つ所(燃えるしば)が聖なる場所と考えやすいところを、モーセ自身がたつ場所こそ聖であるとあえて神が言明しているから。これは、いかにもいそうな所に神はいないということ。つまり神殿や教会、神社などには神はいない。その代わりに、人が自らの使命を自覚してしっかり立つとき、神はその場所に触れてくるのだ、と。
古代ではサンダルは「名誉と誇り」のしるしであり、エゴの象徴でしたから、「くつを脱げ」という神の命令は「まず自分の過去を捨てよ」という意味であり、かつての身分やいい暮らしが忘れられないモーセに中途半端にしがみついている体裁や立場から脱却して、それとは裏腹の現実をありのままに受容せよ、という意味があったのかも知れません。
5月6日におとめ座から数えて「理解と成長」を意味する3番目のさそり座で満月を迎えていく今週のあなたもまた、みずからの立つべき場所に立つためにも、そうした意味での「くつを脱ぐ」ことを試みてみるといいでしょう。
「住する所なき」
世阿弥が完成させたと言われる能は、現在からみれば伝統芸術ですが、実際に世阿弥が生きた時代においては目まぐるしく変わっていく最中にあった「現在の芸術」であり、今そこで作られつつあるものでした。
珍しさが求められ、新しさが観客の関心のまとであり、毎回公演ごとに変化していくことこそが芸術の価値でした。
その意味で、例えば彼の遺した「住する所なきを、まず花と知るべし」という言葉の「住する所なき」とは、住居のことではなくて、「同じ所にとどまり続けることなく」の意味。すなわち自己模倣のうちに同じことを繰り返す惰性の人生のことを指し、そうした惰性の罠から脱け出していくことが「花」=芸術の中心であると言っている訳です。
今週のおとめ座のテーマを言い換えれば、これまでの自分のままでやっていこうとする「住する」の精神をどこかで捨て、卒業していくということでもあります。世阿弥の言葉は神の命令と似て厳しいですが、今こそ耳を傾けていきたいところ。
おとめ座の今週のキーワード
非在の神が臨在する場所