おとめ座
ひとつの息の転換
春月とレモン
今週のおとめ座は、『春月や切ればわが家にレモンの香(か)』(中島斌雄)という句のごとし。あるいは、人界の穢れをまず自分の生活圏から祓っていこうとするような星回り。
秋の澄んだ白い月と違って、春にぼんやりとした夜空にのぼる月は暖色系のあたたか味のある光を発していて、どこかやさしく親しみを覚えさせるようなところがあります。
そっと手を伸ばせば手に取ることができるような月と出会って、作者はなんとなくレモンを1つ買って帰ったのかも知れません。夜空に浮かぶ月と、まな板のうえに転がるレモンと、家中にひろがる爽やかで脳みそが一新されるような香り。句のなかで、それらが無理なく自然につながっていくあたりは、作者の人間的資質によるところも大きいように思います。
すなわち、作者が志向しているものは知性と抒情(じょじょう)とが溶け合った清浄な世界であり、日頃慌ただしく世間の煩い事だけで生活を満たしがちな人間もまた、決して人間だけで固まっていてはいけないのだという決然たる主張が、ここには潜んでいる気がしてならないのです。
28日におとめ座から数えて「浄化」を意味する12番目のしし座で上弦の月を迎えていく今週のあなたもまた、ともすると人人人(に少しAI?)で埋まりがちな生活空間にするりと自然を招き入れていくべし。
異語への組み替え
ドイツ系ユダヤ人の詩人パウル・ツェラン(1920~70)は、かつて「詩―それはひとつの息の転換なのかもしれません。おそらく詩は道を―芸術の道をも―こうした息の転換のために進むのではないでしょうか」と述べていたことがありましたが、これはことばというものが真に詩的に用いられるとき、人はそれによって日常の息苦しさから救われていくのだという明快な真実を端的にあらわしてくれています。
例えば、人間という生き物の思考の様相について、ゴッホの「星月夜」に着想を得て、「糸の太陽たち/灰暗色の荒野の上方に/樹木の/高さの/思考が/光の音律をかき鳴らす」と書き、また終わってしまった愛の時間について「ぼくは咲き終わった時刻の喪章につつまれて立ち」と表現するツェランの詩行を追っていくとき。私たちはみずからの生きる現実までもが、ひとつひとつ日常を離れて“異語”として組み替えられ、新鮮さを伴ってこちらに迫ってくるさまに、改めて目を見開かされていくはず。
そしてそれは、現代社会に氾濫することばの、がまんできない軽々しさ、まずしさの対極にあるものという風にも言えるのではないでしょうか。同様に、今週のおとめ座もまた、そうした意味での「息の転換」に身を任せてみるといいでしょう。
おとめ座の今週のキーワード
日常のことばの息苦しさから不意に救われていく