おとめ座
ある蛇の飢餓感
「蛇穴を出づ」
今週のおとめ座は、『春の蛇座敷のなかはわらひあふ』(飯島晴子)という句のごとし。あるいは、今までになかったような感情に突き動かされていくような星回り。
冬眠していた蛇が、穴から這い出してくることを、「蛇穴を出づ」といい、これが伝統的に春の季語とされてきました。掲句では、そんなまだ寝ぼけまなこでぼんやりとしている蛇に焦点を当てています。
ひさしぶりの世間に、まだどこか所在なさを感じているところに、座敷のほうから賑やかな笑い声が聞こえてきた。そのとき初めて、蛇が自分が座敷の「そと」にいることをまざまざと意識させられたのです。途端に、胸のうちですうっと「寂しい」という感情がせりあがってくる。
別段、仲間外れにされた訳でもなければ、自分からそうと覚悟して飛び出してきた訳でもない。ただ、気付いたら世間からずいぶん遠く離れたところに来てしまったという、孤独の味わいがここでは詠まれている。当然、この蛇には作者自身が重ねられているのでしょう。そして、蛇はこのとき自身の孤独を発見しただけでなく、飢餓感にも通じる他者を強く求める気持ちにも気付いてしまったのではないでしょうか。
3月21日に春分、そして22日におとめ座から数えて「親密性」を意味する8番目の星座であるおひつじ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、できるだけ深いところから湧き上がってきた感情にのっとって誰か何かと関わっていきたいところです。
「生物の本然」ということ
作家の中島敦が24歳頃から書き連ねた私小説『北方行』には、作者がみずからを投影させた主人公・三造が次のように語っている場面が出てきます。
いつのころからか、彼は、自分と現実との間に薄い膜が張られているのを見出すようになった。そして、その膜は次第に、そして、ついには、打ち破り難いまでに厚いものになって行った。彼は、その、寒天質のように視力を屈折させる力をもつ、半透明な膜をとおしてしか、現実を見ることができなくなってしまった。彼は、ものに、現実に、直接触れることができない。彼がものに触れ、ものを見、又は行為する場合、それは、彼の影がものに触れ、ものを見、又は行為するのである。
そうして、現実に直接つながれなくなり、生きている実感さえ得ることができないという焦りを募らせるに至って、三造はこう漏らすのです。
生きている、とは、どういうことか。人はそれを知ることはできない。只、感じ得るばかりだ。そして、その真実の生命の焔を常に全身の脈管に感じつつ、生きて行く事こそ、人間の、というよりは生物の―理屈も何もない―本然なのではないか。
こんな風にいくら自分に言い聞かせても、「真実」や「生命」といった言葉や概念の抽象性はどこまでもぬぐい切れず、それもの自体のなまなましさは捉えられないでしょう。
今週のおとめ座もまた、言葉という手段の非直接的なまだるっこしさや空虚さを介して、自分が追い求めているものの質感がこれまでより一層明確になっていくのを感じることができるかも知れません。
おとめ座の今週のキーワード
生命の焔を全身の脈管に感じつつ、生きて行く事