おとめ座
無頼の春
春の魔性に身を重ねて
今週のおとめ座は、「祝ひ日や白い僧達白い蝶」(小林一茶)という句のごとし。あるいは、不意にみずからの業のようなものが展開されていくような星回り。
文政元年、作者56歳の頃の作。蝶が舞い、うららかな春の祝い日とのことですが、何のお祝いなのか、いったいそれがいつなのか、詳細は不明。
「白」が効果的に使われることで、この「僧たち」はいささか面妖であり、蝶は可憐であるばかりでなく、誰かの生まれ変わりかと思わせるような化なるものの気配を漂わせる。明るく穏やかながら、どこか死が濃厚に薫る春の魔性が句全体から感じられるのではないでしょうか。
いったいどういう意図でこんな句を詠んだのか。はっきりしたことは分かりませんが、晩年になって結婚した作者は2年前に待望の長男・千太郎を生後一カ月足らずで亡くし、そしてこの年に長女さとを得たものの、やはり生後まもなく亡くしています。
うがった見方ではありますが、掲句そのものに、長い沈黙のあと虚ろな表情でやっとポツリとつぶやいた一言のような独特の質感があることからも、みずからの身の内に巣食う業(ごう)の深さに諧謔をもって向きあった一句なのではないかとつい考えてしまいます。
20日に太陽がおとめ座から数えて「痛みと気付き」を意味する8番目のおひつじ座に移動し、春分を迎えていく今週のあなたもまた、そんな作者のように認めざるを得ない現実を受け入れていこうとしているのかも知れません。
「無頼派」
一般的には「ごろつき」や「無法者」といったイメージの「無頼派」という言葉ですが、無頼派作家の代表格とされた坂口安吾のような人間を見ていくと、それは単にドロップアウトなヤンキーを指しているのではなく、開き直って生き続けていくだけの強さを持とうとし続けた人間のことなんだということが分かってきます。
何に対しての開き直りなのかと言うと、それは自身のあやまちに対しての開き直りです。ただ、ここで勘違いしてほしくないのは、だからといって無頼は「失敗の無責任な肯定」ではないということ。それは単なる自分勝手であり、自己満に過ぎない。そうではなくて、たとえ失敗だったとしても事を起こし、そこに夢中になった事実だけは、否定しきれないわけで、他ならぬ自分だけはそれを肯定しようじゃないかという心意気です。
それで例え周囲から非難されようと、中途半端な反省なんて、しない方がよっぽどいい。自分ひとりで抱え込んで‟解決”しようとするのは最悪だ。むしろ失敗を隠さずに公表し、あるいは誰かと共有すること。それが誰かの泣き笑いに変わったら、もう最高じゃないか。
今週のおとめ座は、一茶もそうであったように、そうした言葉の真の意味での「無頼派」になったつもりで過ごしてみるとでいいでしょう。
今週のキーワード
坂口安吾「風と光と二十の私と」(青空文庫)