おとめ座
with煩悩
「たかが」と「されど」のあいだ
今週のおとめ座は、「芋を食べ秋水を飲み清浄身」(山蔭石楠)という句のごとし。あるいは、この世を生きていこうという覚悟を改めて固めていくような星回り。
作者は終戦の秋、20代で得度したものの3年後に病気のため還俗し家業を継いだ、いわば半僧半俗の人。掲句にも、そうした生き様が否が応でも滲み出ている。
「秋水」とは秋になって澄み渡る水のことで、大気同様に秋は水も清らかになるが、それを飲んで「清浄身」になるだけならば、浮き世が嫌でその外へと出ていった隠者か仙人。ただ、掲句の場合はその前に、「芋」を食っているところがなんとも人間臭い。
浮き世を離れきれず、戻ってきてしまった自分を責めるでもなく、かといって何の引っかかりもなく肯定している訳でもない。ただ、結局そこからしか自分は人生を始めていくことができないのだという、ある種の開き直りとも言える心境がうかがえます。
たかが十七文字の短い言葉ではありますが、されどそれを詠んだ瞬間、作者の腹には重い決意のようなものが宿ったのではないでしょうか。
17日に自分自身の星座であるおとめ座で新月を迎えていく今週のあなたもまた、そうした「たかが」と「されど」のあいだに立って、捨てきれぬ人生への思いを拾っていきたいところです。
作務するように生きてみる
禅の「作務」とは掃除や草引きなどの労務でことで、境内や道場などの修行の場を整えるための毎日の環境整備であり美化活動全般を指します。当然、多くの人に注目されるような仕事でもなければ、やってお金になる訳でもなし。およそキャリアアップやワクワク感などとも縁の遠い肉体労働です。
自分はそんなことはしたくないと思う人がいるかもしれませんが、禅の修行ではこうした作務を非常に重視し、高齢になった老師が決して作務を辞めようせず、「一日不作一日不食(一日なさざれば一日くらわず)」といった言葉を残した例も事欠きません。
これは古い時代の精神主義というより、自分自身をどういう存在として捉えているかの表れでしょう。つまり、煩悩や過剰さに囚われやすい自分であると実感していればこそ、作務のような自分を空っぽにする作業の大切さが身に沁みてくるのです。
逆に、何かを獲得しなければ、あるいは人から承認されなければ自分には何もないと考えている人ほど、こうした作務を嫌がる傾向にあるように思います。自分はどちらに偏っているか、まずは一度心に問いかけてみるといいでしょう。
今週のキーワード
半僧半俗