おとめ座
無言と有言のはざまで
立ちのぼる気配
今週のおとめ座は、「灯篭にしばらくのこる匂ひかな」(大野林火)という句のごとし。あるいは、どんなに抑え込もうと漏れ出してきてしまうものを、そっと手ですくっていくような星回り。
作者の自解には、次のようにあります。
「こうした淫靡なものにひかれるところはいまも私にある。私の俳句の源だろう。悲しき思い出のまつわる句だが、いまは語らぬ。」
こう言われてしまうと、ますます目が離せなくなってしまう一句だが、その詳細はようとして知れない。けれど、奥深くて暗い思いの底から匂い立つ確かな気配のようなものこそ俳句の正体であるという見立ては、なにも作者に限った話ではないでしょう。
『老子』の五十六章は「知る者は言わず、言う者は知らず」という文言から始まりますが、分かりやすい言葉で大いに語れるほど何かを悟っている訳ではなし、それでも無理をして胸の内の気配をかき消してしまえば、自分が生きているとは到底言えないではないか。
そういう心の動きそのものがこうして自然と言葉になっていく時、それによってその人は言葉に救われているのだと思います。
今週は立春、そして新月と続く光の季節の始まり。近づいてくる春の気配を探すように、自分の中での芽生えた無視することのできない心の動きをただ見つめていきましょう。
静かな革命
老子もそうですが、本来、師というものは弟子に「それはなぜそうするのですか?」と聞かれても、しばらく前方を見つめて、うなずいてから、説明せずに無言を貫くものです。
これは、「ああなってこうなって、こうなるんだ」と言葉で説明しようとしても、どれも正確には表現しきれないのです。優れた師であればあるほど、不正確なことには黙ってしまうものなのです。
しかし、それがかえって弟子に革命を引き起こす。こうした教え方をめぐる不思議というものがあるのだと、どうか知っていておいてください。
そしてこれは自分自身の内側で起こった気持ちや、考えについても同じことが言えるのです。ふっと何かが浮かんだ先から、「これはこういう気持ちだ」「こんな考えは常識外れ」だとやってしまうのは、最悪の師として自分に接しているのと同じなのだ、と。
まずうなずくこと、そして無言の教えを大切にすること。今週は自分自身に対して、まずこの2つのことを心に留めていきましょう。
今週のキーワード
「……」