おうし座
不意に、存在が
こころの芋ほり
今週のおうし座は、幸田文の『崩れ』の一節のごとし。あるいは、なまなましい、無加工の心の声をひきずり出していこうとするような星回り。
名エッセイストで知られる幸田文が、地質学上の「崩れ」に興味を抱いて、72歳にして全国各地の山崩れ現場を歩き回った経験をもとに書いた『崩れ』のなかに、次のような一節があります。
読んだのではただ通り過ぎた弱いが、語られてぴたりと定着し、しかも目の中にはあの大谷崩れの寂莫とした姿が浮かんでおり、巨大なエネルギーは弱さから発している、という感動と会得があってうれしかった。
この前段で、幸田は砂防工事事務所の所長に、「だいたい崩れるとか、崩壊とかいうのは、どういうことなんですか」と聞き、「地質的に弱いところといいましょうかねえ」という所長の答えの中の「弱い」という一語にハッとしたのだとか。
崩落現象の原因となる土壌の脆弱さや軟弱さの危険さについては、ものの本であれば大抵は指摘されていたはずなのに、自分はそれを見事なまでに読み飛ばしていた。それが文字でなく肉声によって伝えられた途端に、今はっきり頭に入ってきて明確な像を結んだのだと、ここで述べているわけです。
10月24日におうし座から数えて「心的基盤」を意味する4番目のしし座で下弦の月(意識の危機)を迎えていく今週のあなたもまた、いつもなら削除してなかったことにしたり、取り繕って無視するような心の動きを、むき出しのまま目の前に置いていくべし。
猥褻な裸形の塊
私たちは普段、何か物がそこに“存在している”ということを本当の意味では感じていません。物はまるで舞台装置のように私たちを取り囲み、手にとっても予定調和な抵抗があるばかりで、なんでもないような道具の役割をこなしているのです。
とはいえ、そうして大人しく人間側に都合を合わせてばかりいる訳でもないことは、例えばサルトルの『嘔吐』に出てくる例のマロニエの根っこの記述などにあたれば分かるはず。
それから不意に、存在がそこにあった、それは火を見るよりも明らかだった。存在はとつぜんヴェールを脱いだのである。存在は抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。それは物の生地そのもので、この根は存在の中で捏ねられ形成されたのだった。と言うよりもむしろ、根や公園の鉄柵やベンチや、禿げた芝生などは、ことごとく消え去ってしまった。物の多様性、物の個別性は、仮象にすぎず、表面を覆うニスにすぎない。そのニスは溶けてしまった。あとには怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が残った―むき出しの塊、恐るべき、また猥褻な裸形の塊である。
この「怪物じみた」という形容は言い得て妙でしょう。それはつまり、決して前代未聞なのではなく、むしろうすうすその姿かたちに見覚えがあるものが、日常のなれ合いに明らかにそぐわない形で不意に目の前で開帳される際にそう感じるからです。
その意味で、今週のおうし座もまた、安易な先入観によって覆い隠されている「存在」のとばりの向こう側を垣間見ていくことになるかも知れません。
おうし座の今週のキーワード
「巨大なエネルギーは弱さから発している」