おうし座
幻想が現実を追い越していくとき
頭で考えた推論の向こう側
今週のおうし座は、『田一枚植えて立ち去る柳かな』(松尾芭蕉)という句のごとし。あるいは、どこからか湧いてきた白日夢に、自身も溶け込んでいくような星回り。
那須湯本から北西へ15キロほど離れた、街道から細い道を入っていった先の、田んぼ沿いに無人の神社があり、その古ぼけた鳥居のそばに、ぽつんと柳の木が立っている。これが西行の和歌にも詠まれたいわゆる「遊行柳」で、今もなお細い枝のさきまで溢れんばかりの霊気をみなぎらせているかのようにしてそこにある。
そんな柳の木を旅の途上で作者が訪れ、詠んだのが掲句な訳ですが、解釈が分かれてくるのはそれぞれの動詞の主語が誰なのかということ。普通に受け取れば、「田一枚植え」るのが目線の先にいる早乙女で、「立ち去る」のが芭蕉自身で、そこで一息ついて「柳かな」と状況説明しているということになるでしょう。
しかし、それではあまりに目線が細切れになりすぎて、全体としてのイメージにまとまりがなく、消化不良な感じが残ってしまう。あるいは、気が遠くなるような昔からくり返し「植え」ては「立ち去」ってきた早乙女たちの営みを、この「柳」の木はずっとここで見守ってきたのだ、という解釈も可能ですが、そうすると芭蕉はおのれを殺して客観写生に徹していたのだということになりますが、果たして芭蕉はただそれだけの句を、彼がロールモデルとしていた西行ゆかりの地で詠むだろうかという疑問が残ります。
そこで実際に柳と立ち会ったときの、あの今にも柳の木が歩き出してしまいそうなアニミズ的なニュアンスを踏まえると、田を「植える」のもそこから「立ち去る」のもじつは柳であるという解釈が引き出されてくる訳です。芭蕉は柳の木に圧倒されるあまり、その精霊が躍動する情景を、不意に幻視してしまったのだと。ここで柳の霊は西行の歌霊でもあり、それを通じて芭蕉は西行の旅をも幻視しているのです。
6月21日におうし座から数えて「受発信」を意味する3番目のかに座に太陽が入っていく(夏至)今週のあなたも、現実と想像とがダイナミックに混淆していくような感覚に、人知れず没入していくことになるでしょう。
ビジョンの発生
以前どこかで、LSDを服用した後、まぶたの裏に一輪の蓮華の花が花開いていくのを視たという体験談を読んだことがありました。
花芯からつぎつぎと花びらが湧き出し、それが外へ外へとかぎりなくひらいていく。それはひとつの運動であり、秩序であり、同時に完全と無限との相容れがたい2つの相を備えていた、と。
固くつぼんだ状態からじょじょに開花していくその姿は、収縮した心臓が膨張するようでもあり、宇宙が幾つものカルパ(サンスクリット語で「宇宙の始まりから終わりまでの時間」の意)を経て極小の点から極大の宇宙へと向かうようでもあり、どことなくバラモン教の奥義書であるウパニシャッドに出てくる「ブラフマン(宇宙我)の都城(身体)の中の白蓮華の家(心臓)」という文言を思い起こさせます。
きっと忘れ去られていた記憶が不意に浮上してきたり、直接会った訳でもない誰かとの関係性がグッと近くなったりする時にも、どこかで目に見えない蓮華が咲いているのではないでしょうか。
今週のおうし座においても、そんな幻視とも言い切れず、現実にもなりきっていない一つのビジョンがそっと花開いていくことがあるかも知れません。
おうし座の今週のキーワード
まぶたの裏に